お父さんが音楽家になるまで~就職活動、内定、からの…

皆さんこんにちは!ソングメーカー代表、井村淳也です。

今日もブログをお読みくださり、ありがとうございます。

さて、今回の記事は大学生活の後半戦に入ります。
私の人生にとって、きわめて重要な出来事が起こりますので、心して(?)読んで下さいませ。

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平凡に続く大学生活中盤

色々と波乱の出来事が続いたのですが、大学2年春~3年夏の頃はわりと平和に、平凡に過ぎていきました。
その間、特筆すべきことといえば、やはり音楽の勉強と制作です。

音楽の理論書、問題集。
そこで得られた知識を実践で使ってみる。
実際に作ることでまた発見があり、疑問点があれば理論書へフィードバックしていく。

そんな作業の繰り返しは、私の音楽制作スキルを確実に押し上げてくれました。

事実、この頃は理論的に複雑だったり、凝った楽曲を試作するなど、色々な挑戦をしていたのでした。
もちろんいうまでも無く、複雑な楽曲=良い楽曲、とは限りません。
ですが、音楽の可能性を追求したこの時期の自分は、間違いなく今の自分にとって重要でした。

複雑な構成の音楽を作った経験があるからこそ、シンプルな楽曲の良さに辿り着いた。
そんな風に思っています。

ちなみにこの時期、色々なアルバイトを経験しました。

家庭教師や郵便局の深夜仕分けと言った学生らしいものから、テレアポ、教材の訪問販売などハードななものもありましたが、その中でよく活用したのが
「単発バイト」
でした。

学校の事務に、毎日、日替わりのアルバイト情報が届くのです。
大学に斡旋される形で色々なお仕事を経験できました。

ほとんどが一日だけ、現地集合、仕事を終えて現金でお給料を頂き、現地解散。
というとてもシンプルなものでした。

覚えているだけでも、引越し、書道の展示会、DM封入、イベントのガードマン、など等。
本当に色々な場所に行き、色々なお仕事を経験させて頂いたのです。

これも学生のメリットの一つですよね。
この頃得られた社会経験も、私にとっては貴重なものだったと感じています。

そして迎えた就職活動

ときは流れ、大学3年生の秋となりました。
ひとつの、現実に立ち向かうことになります。

そう、それは”就職活動”でした。

大学に入ったとき。
その自由でさわやかな雰囲気に圧倒されました。
ああ、全く新しい世界に飛び込んできた。
そんな感動を覚えたのです。

しかし、同時に。

さあ、これからどうやって生きていこうか。

そんな漠然とした不安、将来に対する不確かさ、そんな気分になったことも覚えています。

自由だからこそ、これからのすべての行動には責任が伴う。
どうやって生きていくべきなのか、何をなすべきなのか。
そこを真剣に考えて生きていかなくてはいけない。

そんな決意というか、選択を押し付けられているような、そんな気分になったのでした。

それはおそらく、高校1年生の時不登校になり、それまでの自分が人生を真剣に考えていなかったこと。
そんな風に流されて生きていた、人生を大切にしていなかったことが、苦い経験となり、また同じことは繰り返さないようにと自分を戒めていたような、そんな風にも思います。

折角、あれだけ勉強を頑張って入ることができた大学。
だからこそ、入学当初から公認会計士の資格取得のために勉強を始めたのだと思います。

しかし、以前の記事で書かせて頂きましたように、既にこの頃はもう資格取得はほぼ諦めていました。
その代わりに、音楽が生活の中心となっていたのです。

でも、ひとつの現実が自分の前に立ちはだかるのでした。

大学で何を学び、何を得たとしても、いつまでも学生でいるわけではありません。
日本人として生きていくために存在する義務のひとつ。勤労。
だからこそ、社会人としてどう生きていくのか、人生の長い時間である仕事を何にするのか。
それを見つけるために大学生活があるのだ、そんな風に思いました。

言ってみれば、音楽をどれだけ必死にやったところで、結局は同じ未来に辿り着く。
それが、就職活動、ということなんだ。

現実的に仕事に出来るものでなければ、結局は趣味に過ぎない。
どれだけ夢見たところで、その時の自分に何ができるわけでも無かったのですね。

そんな色々なことを考えながら、それでも就職活動へと動き出していったのでした。

明確に定まらない目標と、ひとつの答え

就職活動を始めるまで、時間は十分にあったにもかかわらず、私は十分にその備えをしていませんでした。

どんな業界、業種か。
どんな職種か。
公務員か、民間か。
社風は?望む待遇は?

長く勤めることになるのに、私は人並みにその考えをまとめていなかったように思います。
大学側にお尻を叩かれ、嫌々就職活動へと動き出していったのでした。

それでも、会計を学んだ私にとって、
「金融機関」
というものは一つの、分かりやすいターゲットではありました。

そしてまた、そこまで明確に行きたい企業が無かった私は、地元へ帰ろうかと考えたのです。

そんな中、自分が第一志望として選らんだのは、地元の大手金融機関でした。
静岡県内最大手とされ、地元では誰もが知るところだと思います。

迷いながらも、就職活動の疑問に対する一つの答えが出た私は、OB訪問など一連の手順を踏み、入校試験へと臨んだのでした。

就職活動の結果は・・・

噂には聞いていましたが、大手の就職試験はとても大変でした!
試験から入って面接は全部で4~5回やったでしょうか?

私にとって面接はとても苦手なものでしたが、それでも何とか自分なりに出せるものを出し切ったのです。

そして結果は、なんと!

見事に内定でした!

ちょうど実家に帰っているときに電話がかかってきて、家族みんな大喜びしてくれたことを覚えています。
今、思えば、どうしてそこを目標としたのか。
それはきっと、親を喜ばせたかったからなんでしょうね。
というのも、私が大学に入ったことで、親はたいへん喜んでくれました。
それまでがどうしようもない高校生だったので、余計にその喜びが大きかったようです。

それが、私にとってはとても嬉しかったのです。
だから、また、みんなを喜ばせたい。
そんな思いに駆られたのでした。

地元の大手金融機関に入行できれば、家族や親戚はきっと、誇りに思ってくれるはずだ。

そんな思いが、私を動かしていたのだと思います。

良かった、これで良かった。みんな喜んでくれている。

しかし、そんな風に安心しながらも、心はどこか満たされない思いでいたのでした。

就職活動で疲弊し、燃え尽きた心。引きこもりへ

晴れて第一志望の金融機関から内定を頂けた私。

喜ぶべきことですし、とても幸運でもあったと思います。
それでもなぜかその後は心が晴れず、しばらく元気が出なかったことを覚えています。

それは、本来本当に望んでいたわけではない就職活動を必死にこなしてきたことで、心が疲れきってしまったのではないかと思います。
燃え尽き症候群、とは少し違うような気もしますが、症状としては似ていたかもしれません。

そして、ただでさえ大学には友達が少なかったところに加え、基本的に誰ともつるむことなく、一人で就職活動を進めていた私にとっては、大学という場所がどこか遠いところのようになってしまったのでした。

既に内定は頂け、あとは卒業するのみ。“大学”という場所における、目標を見失ってしまったような気持ちだったのかもしれません。

次第に大学に行きづらくなっていきました。

高校の時のように、不登校になるわけでは有りませんでしたが、何となく無気力になり、必要最低限の通学以外、家に引きこもるような日々となっていってしまったのです。

それだけ、音楽に没頭していた

それは、就職活動まであれだけ力を注いだ、音楽の影響でもあったはずです。
就職内定ということは、当然、卒業後の社会人生活が待っていることになります。
そして同時に、自分の音楽への夢が現実的に、絶たれたということも意味していました。

それだけ、私にとって音楽というものは、自分のすべてをかけて情熱を注ぎ込んだものだったのだと、今思います。

就職活動が始まるまで、まともにその準備もせず、深く考えてもいなかったこと。
内定を頂けたあと、無気力となり引きこもってしまったこと。

それらはすべて、音楽につながっていたように思うのです。

まるで、いつまでも大人になりきれない子供みたい。

そんな風に思われるかもしれませんね。
でも、私にとってはやはり、音楽が唯一の、自分に自信を持てるものだったのだと、思います。

大学に入り、一旦は資格取得を夢見て、勉強に励んだ。
そこで挫折を経験するも、自分にとって“これだ!”と思える音楽に出会えた。
しかし、また現実に戻され、就職活動。

一度、本気で取り組んだ音楽を、別のことで封印されてしまったような、そんな感覚だったのです。

それが自分の無気力を生み、引きこもりのような生活となってしまったのでした。

本当は、もう、気がついていたのかもしれません。
「自分が本当に進むべきなのは、音楽の道なんだ」
ということ。

ですが、それをかなえるための方法がわからない。
現実に何をすべきなのか、何も見当がつかず、ただ時間が流れていくだけでした。

大学入試のときのように、決まった勉強をして、試験で結果を出せば、認めてもらえる。
そんな、分かりやすい判断基準が有るわけでもありません。
ただ漠然とした夢があって、その実現のために一体自分に何ができるのか?
それさえも分からない状態だったのです。

本当にやりたいことがあるのに、その道に進むことができない。
その苦しい思いが、その時の私に大きな反動となって返ってきてしまったのではないかと、思っています。

その結果は最悪の形となって・・・

そして、迎えた4年生の冬。
私はなんと、あろうことか、必須科目の試験を受け忘れてしまうという大失態を犯します。

足しげく学校に通うでもなく、本当にただ無気力に生きていたその頃の私。
特に気をつけておくべき試験の日程も、自分の中で曖昧になっていた。
本来あってはならないことですが、絶対に受けなくてはならない試験を受けなかったのです。
全体の科目数は足りていましたが、必須科目は他で埋め合わせができないのです。

後から気がついて、慌てて大学に掛け合いました。
再試験を受けさせてもらえないか。
しかし、結果は厳しいものでした。

そして、留年が決定したのです。

取るべき単位が取れていないのですから、当然です。
もちろん私は、必死にかけあいました。
大学にも。就職先にも。

しかし、結果はやはり、どうにもなりませんでした。。。

留年。
なんと、もう一年、大学に通わなくてはならない。
たった、一科目のためだけに。

そしてその時、改めて気がついたこと。
もう一度、就職活動をやり直さなくてはならない。

その事実を改めて突きつけられ、目の前が真っ暗になりました。

親との電話

私にとって、最も辛かったこと。
それは、留年したことを親に知らせなくてはいけなかったことです。
そして、あれだけ喜んでくれた、内定が取り消しになったことも。

電話の向こうで、親の今まで聞いたことの無い口調を聞きました。
なんと言っていたのかは、ほとんど覚えていません。

私は、自然、号泣していました。
ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返すだけでした。
親の前で(電話越しにですが)それだけ泣いたのは、大きくなってからは初めてだったと思います。

苦労して手にした内定を、自分の不注意で台無しにしてしまった。
もう一年、すべてをやり直さなくてはいけない。

そして、これは後で痛感することとなりますが、二度目の就職活動は当然、一度目とは比較にならないほど厳しいものとなります。
さらに、5年目の仕送りが止められることも決定しました。
自分の責任なのだから、自分で何とかするように。
それが親の出した結論でした。

そんな現実に押しつぶされそうになっていましたが、それ以上に、たくさんの人たちの期待を裏切ったことに対する思いが強かったことを覚えています。
自己嫌悪、情けなさ。
一体何をやっていたのか。
自分のことを許せない気持ちにもなりました。

でも、それが自分自身なのですよね。

自己責任で大失敗を演じてしまった私。
これから、苦難の留年時代に入ってまいります。

今回も長い記事となりましたが、最後までお読み下さり、ありがとうございました!

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