お父さんが音楽家になるまで~高校1年で不登校…退学も考え

皆さんこんにちは!ソングメーカー代表、井村淳也です。

今日もお越しくださり、ありがとうございます。


今回は、高校入学後の私についてお話させて頂きたいと思います。
とても長くなると思いますが、私が音楽家を志すための重要な分岐点が含まれていると考えています。
どうかお読み頂ければ嬉しいです。

中学時代、いじめにあった私でしたが、中学3年生の頃はだいぶ落ち着いてきました。
それは3年生時の担任の先生の人柄によるものが大きかったのでは、と思っています。

そんな中で迎えた、高校入試。
結果的に私は、公立の志望校に合格することができましたが、その進路として選んだ高校は、今思えば自分の中で徹底的に考えて決めたものとはいいがたいものでした。
「学力的にちょうどよさそうだから」
「家から近いから」
「兄も行った高校だから」
そんな理由で、言ってみればまた周りに流されて決めてしまったようなところが大きかったと思います。
「学力的に微妙だけど、頑張れば行けるかもしれない上位志望校を目指す!」
と言った気概もなく、ただ何となく決めてしまった進路だったのです。

全く新しい環境に馴染めず、戸惑いの連続

さて、高校と言う場所はそれまでと違い、一気に新しい出会いが増える場合が多いのではないでしょうか?

小学校、中学校は各地域ごと、一番近い公立の学校に行き、高校からはより広範囲の候補から選んで入学する。
私もまさにそういう状況で、それまでの徒歩とは違い自転車通学となりました。

本来、新たな出会いに緊張しながらも、新生活や新しい友達への期待もある、そんな時期だと思いますが、私の場合は当時、もともとの性格が人見知りで消極的だったところに、つい最近までいじめられ学校生活で辛い思いを重ねてきたこともあり、どうしても心を開くことがなかなかできずにいました。

クラスメートも、ほぼ全員が知らない人たちばかり。
そんな中にあって私は自分をうまく表現することができません。
周りの人たちは、新しい出会いに戸惑いながらも徐々に距離を縮め、親しくなっていく。
そして学校での居場所を次々と見つけていく。
そんな中私は、一人取り残されていくような思いを日々強くしていきました。

そんな理由のひとつに
「部活に入らなかった」
ことがあります。
私の通った高校は「文武両道」を掲げ、勉強もスポーツも盛んな学校でした。
ですから部活も運動部、文化部問わず活発で、ほとんどの人は何かしらの部活に身をおくというのが通常でした。

今とは時代も違うかもしれませんが、そうすることが当たり前だったのです。

そんな中、私はいわゆる帰宅部になります。
それは、何かはっきりとした理由があったからではありませんでした。
部活に入らない代わりに何かやりたいことがあるわけでもなく、ただ何となく入らなかったのです。
もう、この時点で高校生活のスタートが間違っているという感じですよね。

その代わりと言っては何ですが、私が高校に入ってすぐに始めたのは
「アルバイト」
でした。誕生日が5月でしたから、すぐに16歳になったんですね。

ではどうしてアルバイトを始めたのか?ということですが、これも
「お金が欲しかったから」
なんですね。(身もふたも無い!)
もちろん、アルバイトにも良い面はあります。早い段階から社会経験をつみ、働いてお金を稼ぐことの大変さ、大切さを知る。
それまではただ親に養ってもらうだけの存在でしたが、そこで初めてお金の本当のありがたみを知って、社会で生きていくことの意味を知る。

そんなメリットもあります。
ですが、そのときの私にはどうしてもこれを買いたい!とか、家にお金を入れて両親を楽にしたい!とか、そういう明確な目的があったわけでもなく・・・

結局のところ、その場の思いつきで行動を決めていました。特に将来を真剣に考えての行動ではなかったのです。
それも遠い将来ではなく、例えば来年とか再来年とか、その頃の自分のことをイメージしてみれば、どうするべきかは分かったはずなのですが、私の場合は違いました。

ただ流され、人生に対して真摯に取り組むことをしていなかったのだと思います。

そして始まったバイト生活

そんな形ではありますが、アルバイトの日々が始まりました。
最初に雇って頂いたのはファーストフード店。
放課後の3時間と、土日のどちらかを仕事の時間にあて、学校との両立をこなしていました。
と言っても、学校はもう「ただ行くだけ」という感じでした。
そもそも、どうしても入りたい!という強い思いを持って入学した高校ではありませんでしたから、勉強にも身が入りません。
また部活にも入らなかった私にとって、学校での居場所そのものがどんどん無くなりつつありました。
そんな状況の中、勉強にも次第に落ちこぼれていくようになり、高校生としての自分って、一体何なんだろう?自分でもそんな風に思うような毎日を過ごしていました。

半年ほどそんな生活を繰り返し、ある転機が訪れます。
人間関係のトラブルで、アルバイトを逃げるように辞めてしまったのです。

中学時代のいじめ、高校に入ってからも環境に馴染めずに孤立する。
そんな人間関係での挫折を短い間に重ねてきた私にとって、今度の経験は改めて辛いものとなりました。

アルバイト先では、やはり自分から心を開くことは相変わらずできていなかったのですが、それでも何とか
自分の居場所
を見つけられていたようにも思います。
楽しい場所とまでは言えないけど、自分の中では
「高校生としてはダメダメでも、バイトは頑張ってるよ!」
という自負のようなものは多少はあったと思いますが、それも失ってしまったのです。

辞めてしまって、さあどうしようかと考えました。

何となく決めた高校。
何となく始めたアルバイト。
私にとって、
「何となく」
という無気力な選択ばかりが続いていました。

当時の私は、今の自分から考えても何の魅力もない人間だったと思います。
まだ16歳でしたが、もう16歳ともいえます。
16年も生きてきたのだから、何をなすべきかくらいは分かるはずなんです。
答えを出すのは難しいことかもしれませんが、せめて真剣に考えて生きることはできたはず。
でも、私はそれをしていませんでした。

正確に言えば、人間関係で続いた辛い経験から、その気力も失っていたのかもしれません。

もう、自分の人生なんてどうなっても構わない。

そんな風に、心のどこかで思っていたのだと思います。
そのことの意味さえもよく分からずに。

そんな中私は、ほどなくしてまた次のバイトを始めることになります。
それは、何と!
「新聞配達」
でした。

高校生が新聞配達、というと、違和感があるかもしれませんね。
思えば当時の私は、既に人間と関わることに疲れてしまっていたのかも知れません。
新聞配達なら、ほとんど人と接することもなく、黙々と仕事をこなすことができます。
学校に通いながらの朝夕刊配達は、大変厳しいものでもありましたが、あえてその仕事を選らんだのはそんな理由があったんだと思います。

当時は原付の免許もなく、自転車に新聞をくくりつけての配達。100軒ほどを担当として任せて頂いていました。
朝は3時半頃起きて配達に行き、戻って二度寝。
そして寝坊し、学校に遅刻…
そして放課後は一目散に職場へ向かい、すぐに夕刊の配達へ。
辛かったのは、重い新聞をくくりつけて自転車をこぐことと、雨の日ですね。

そんな、言ってみれば、何ともおかしな学生ではありましたが、学校を思い切り疎かにしながらも、それでも何とか新たな自分の居場所を見つけられたような、そんな思いでもありました。
当時の私は、それだけ心が乾いていたのだと思います。
学校は既に、ただ通うだけという状況。誰にも心を開けず、学校ではもう完全に自分の殻に閉じこもっていました。
もちろん、好き好んでそうしていたわけではないんです…
ただそれしかできず、何一つ楽しいこともなく、日々を過ごしていました。
心の中は、寂しさで一杯なのに、それを打開できる気力も、アイデアもなく、出口の見えない迷路の中にいるかのようでした。

でも、それでもやっと見つけた新しい居場所。
他のアルバイトと違って、若い同年代の仲間がいるわけでもないけど、それでもまた自分にとって頑張れるものを見つけたのです。

あろうことかパチスロにはまってしまい…

しかし、またも悪い出来事が起きてしまいました。
新聞配達の職場で出会ったおじさんに、なんとパチスロを薦められたのです!
ありえませんよね?
今考えれば、とんでもない不良中年ですが…

それでも当時の私は友人も極めて少なく、何の感情もないような生き方をしていましたから、そのおじさんの誘いは刺激的で、楽しいものでした。
誘われるがまま、パチスロ店に行き、そして不幸なことに始めてすぐに大勝ちを経験してしまいます。
最初のうちに、大負けしていればすぐさま撤退したのでしょうが、当時の私は、これには見事にはまってしまいました。
そして、折角新聞配達で稼いだお金を、結果的には全部パチスロで失うことになってしまうのです。

そんな16歳の冬。パチンコ屋で流れる、クリスマスソングを一人で寂しく聞いていました。
独りぼっちの寂しさを、パチンコ屋の喧騒で紛らわしていたのかもしれません。
同級生の中には、彼女とデートしたり、友達とクリスマスパーティーを開いたりして過ごしていた人もいたでしょう。
私と比べると、何と言う生活の違いでしょうか!

でも当時の私は、そんなことを思う余裕もありませんでした。
なりたい自分もなく、将来への希望もない。ただ不安をごまかして生きるだけの毎日でした。

思えば、こんな出来事のひとつひとつを、身近な人、たとえば家族とかに、相談できれば全く違ったと思うんです。
中学時代から続く、辛かったことのひとつひとつ。
そんなことをその都度、相談できる人がいれば、きっと人生は違うものになっていたでしょう。
でも、できなかった。
すべて一人で抱え込んでしまい、何の解決もできないまま、人生は悪い方向へ確実に進んでいくようでした。

そしてついに不登校が始まる

高校1年で迎える新年が明けましたが、そんな生活は続いていました。
何とかこなす新聞配達と、稼いだお金をパチスロにつぎ込む日々。
もちろん、学校の勉強などは全くやっていませんでした。

その頃は既に、学校に行くのがとても辛くなっていました。
そんなある日、ついに私は一つの行動をとってしまいます。

朝、普段通りに行ってきますと家を出るものの、すぐに公衆電話から学校に電話して、体調不良で休みますと伝えてしまうのでした。
もちろん、仮病です。
それでも、普通の高校生活を送っていたのなら、まだ良かったのかもしれません。
ああ、一回サボっちゃったな。でも明日からちゃんと行かなきゃ。
そう反省して、また普通に学校生活に戻る人が大半でしょう。
でも私の場合は、ただのサボりというより、逃避行のようなものだったのだと思います。

学校を休んで、どこへ行く?もちろん家には戻れませんから、何とその足でパチンコ屋へ。
当然、学生服では追い出されますから、着替えまで用意して。

最初は、それはもうドキドキものです。
店が通報して警察に補導されないだろうか?
そこまで行かなくても、先生や親が来ないだろうか?
そんなことを考えながら遊んでいましたが、結局そういうことは無かったんですね。
それどころか、16歳の私が朝から来ていること自体、聞かれることさえほとんど無かったんです!

当時の私は無気力そのものでしたから、見た目も老けていたのかもしれませんが・・・

そんなことをしてしまったのは、パチスロにはまっていて、楽しかったからというものあります。
でも理由の半分以上は、他に行く場所が無かったからなんです。

学校には行きたくない。
でも、家にも帰ることができない。
だからといって「盗んだバイクで走りだす」ような勇気も行動力もなく。
一度、仮病で休んでしまった学校は、同じことを繰り返すようになりました。
最初は、週に1度。それが2回、3回となり、気がつけば最終的には、完全に学校に行かなくなってしまいました。

でも、朝からパチスロ店にいつまでもいられるほど、16歳にお金があるわけでもありませんよね。
たいてい1~2時間でその日の資金がなくなり、さてどこに行こうか・・・となってしまいます。

もちろん家には帰れません。
そんな高校1年生に、どこにも行く場所なんてありませんよね。
ただ、公園に行ったり、海に行ったり。
お金のかからない場所で、何のあてもなくただ街をさまよう、そんな時間を過ごしていました。

過ごしていた、というよりも、もう心は絶望感で一杯だったと思います。

ああ、今頃学校ではみんな楽しくお昼を食べているんだろうな。
井村はどうしてるかな、とか話しながら。
なんであいつ学校来ないのかな?
家でなにしてんのかな?
とか言って。

いや、もう俺のことなんて誰も気にしてないかな。
もう、とっくに自分の存在感なんて学校ではないんだから。

そんなことを思いながら。
心の中を満たしていた情けなさと、罪悪感。
そして、現実に居場所もなく、今その瞬間、どこに行けばいいのかも分からないような毎日。

辛かったです。とても。その時の自分の状況は、今でも鮮明に思い出せます。
一体自分はなにをしているんだろう。
この先、どうやって生きていけばいいんだろう。
家族にばれたとき、どんな顔をしてなにを話せばいいんだろう。
「そんな子に育てた覚えは無い」と、悲しむだろうか。

そんな不安ばかりの時間を、一人で抱えていたのです。
そうして状況は変わらないまま、むしろ、学校を休む頻度が日に日に増して行く中で、確実に時間は過ぎていきました。

学校には、本当は行きたかった。
行ってみんなと仲良く過ごせたら、どんなに良かったかと思います。

でも、行けませんでした。

その頃、音楽は?

そんな自分にとって、唯一支えになってくれたものは、音楽でした。

行き場のない自分でしたが、どこにいても音楽だけはそばにありました。
それはまるで、世界と完全に切り離されようとしつつある自分を、かろうじてつなぎとめてくれるものであったかのように感じています。

何の価値もないように思える自分にも、まだちゃんと音楽を聞いて感動できるだけの力があるんだ、と思えました。

相変わらず現実の世界で自分の辛い状況は続いていましたが、それでも、音楽の力に強く心惹かれていく自分も、生まれ始めていました。

そしてついにすべてが明るみとなり・・・

ですが、そんな生活が長く続くはずもありません。
ついに家族にすべてを知られてしまう日がやってきました。

あまり不自然な欠席、早退が続くので、担任の先生が家に電話をしてきたのがきっかけです。

その後、担任の先生、学年主任の先生と、クラスメイトが二人、家まで来てくれたことを覚えています。
あれほど居場所が無いと思っていた学校でしたが、こうして心配してくれる人たちがいた。
私は情けなさと、申し訳ない思いで一杯でした。

そして、家族との話し合いでは、家族全員から激しく叱られました。
騙していたわけですから、当然だと思います。

そんな状況で私は、家族にある思いを伝えました。
「高校を中退して、東京に行きたい。新聞配達の住み込みで働いて、ギタリストとしてデビューしたい」

当時、ギターには自信のあった私は、こんなことを言い出したのです。
もちろん今思えば、何の計画もなく、その場しのぎで出した言葉に違いありません。
多少ギターが弾ける程度で、特に音楽の勉強をするわけでもなく、ただ漠然と音楽のプロになれたらいいな、そんな風に思っていたのでした。

もちろん家族には問題にされず、さらに叱られる結果で終わりました。
高校だけは卒業しておくようにしなさい。
そんな風に強く言われました。

今思えば、もしそのまま高校を中退していたら。今の自分は無かったと思います。
何をするにも無気力で、流されていた自分でしたから、もしそのまま東京に来ていても、ものにならずロクな大人にはなっていないでしょう。

そういう意味では、家族のその厳しい叱咤があったおかげで、今の自分があります。
その厳しさこそが家族の愛情だったんだなと、自分も親となった今、改めて感じています。

そんな風に私は周りの人たちの支えがあって、何とか高校に再び登校していくようになりました。
それが、高校1年生の終わり頃のことです。

今回は、とても長くなりましたが、
お父ちゃんが音楽家になるまで~高校1年で不登校…退学も考え
についてお話させて頂きました。

この続きは次回以降にまた、お話させて頂きます。
今回も最後まで(とても長かったですね~、お疲れ様でした!)お読みくださり、ありがとうございました。

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