お父さんが音楽家になるまで~いざ東京へ。挫折、そして音楽の勉強を始める

皆さんこんにちは!ソングメーカー代表、井村淳也です。
今日もブログをお読みくださり、ありがとうございます。

人生初めての一人暮らし

晴れて大学入試に合格し、新しい生活が始まりました。
人生初めての一人暮らしです。

初めての一人暮らしは、東京都日野市。
私にとって
「第二のホームタウン」
となる場所です。

ここで私は、5年間を過ごすことになります。

…あれ?現役で入ったんだから4年じゃないの?

と思われた方!鋭いです。
なぜ5年なのか?そのことは、またおいおいお話させて頂くとして…

初めて住んだ東京都。
京王線の、南平という駅のすぐ近くのアパートでした。
学校との協力アパートで、家賃がとても安かったんですよね。
確か、共益費込みで35,000円くらいだったような記憶があります。

もちろんワンルームの、狭いキッチンにユニットバスという、いかにも学生アパート風情でしたが、それでも私にとっては特別な場所でした。
ここでは、思い出が本当にたくさんあります。

と同時に、不安もありましたし、ずっと静岡の田舎で育った世間知らずの私にとって、新しい体験の連続でした。
いっちょまえに、軽いホームシックにもかかりましたし…

衣食住のすべてを自分でやらなくてはならない。
という生活の変化がまず大きかったです。
学校までは、原付で通っていました。ほんの15分も行けば学校に着いたので通学はとても楽でしたが、毎日の生活を自分で管理しないといけない大変さは一人暮らし独特のものですよね。

朝も自分で起きなくてはいけないし。
食事も自分で何とかしないといけないし。
掃除、洗濯。
光熱費もかかってくるし、役所への届出など、自分でやらなきゃいけないことも出てきます。

まだ学生ですから本当の意味で自立していたわけではありませんが、それでも自分にとって、貴重な社会経験のスタートでした。

そのときの間取りは、大体こんな感じです。
この窓から京王線の線路が見えるのですが、その景色が好きだったんですよね。

ちなみに大学生のとき、
「京王線に揺られて」
というオリジナル曲を作ったりもしました。

機会があれば、こちらも公開させていただきますね!

大学生活と最初に打ち込んだもの

大学と言う場所は、当然ですが高校までとは全く違うところだなと感じました。

年齢的にはもう、大人と言っていい人達の集まり。
特に周りには浪人して入ってきている同級生も多くいましたから、余計にそう感じたのだと思います。

実は、私が中央大学を選んだのには理由がありました。
会計学科
があったこと。そして、私が高校生のとき、何気なく知った
公認会計士
の資格が勉強できる環境があったことです。

それはゼミではなく、もっと本格的に資格合格を目指すもので、学内に専門学校があるような組織でした。
大学に通いながら、ダブルスクールのような形で勉強が出来る。
時間的にも多くのメリットがあるものでした。

私はそこに身を置き、資格の勉強に励むことにしたのです。

当然、会計の知識などは一切ありません。
商業高校を出た人たちは、高校時代に簿記の資格を取っていたりもしているのですが、私の場合はそういうこともありませんでしたので、
まずは簿記の基礎からの勉強となりました。

4月、入学とほぼ同時に受講スタートとなり、簿記の勉強を始めました。
確か6月だったと思いますが、日商簿記検定を受検し、3級、2級を同時に受けるのです。

通常、簿記2級も簡単な資格ではないのですが、何しろ濃密なスケジュールで勉強していましたから、
「簿記2級は軽く受かっていただきましょ~」
的な空気がありました・・・!

実際、そのとおりでほとんどの人がこの6月に合格しています。私も運よく、合格できました。

もちろん、大本命は公認会計士の合格ですから!
すべてが順調にパスすれば、大学3年生の夏の試験で公認会計士の2次試験に合格できます。
実際は3次試験まであり、そこまで受からないと正式な公認会計士ではないのですが、2次試験というのは、ほとんどが最終テストのようなものでした。
最も難関であり、かつ、最も重要な試験だったのです。

夏季合宿などもあり、とにかく簿記、会計の勉強漬けの毎日。
私はもう、完全にそこに没頭していましたから、サークルにも入らなかったんですよね。

気持ちは高く、公認会計士大学在学中の合格へ!
そんな思いで、勉強の日々でした。

大学入試を乗り切ったことで、勉強に対する自信も持てていたことは確かでした。
あれだけのどん底から、現役で第一志望に入れた。
その事実は間違いなく私を変え、よし今度はこの難しい資格に合格するんだ!
そんな思いで一杯でした。

ところで・・・
この時期、私は一旦音楽から離れました。
なぜかと言えば、やはり高校1年生のときの経験が背景にあります。
当時の私にとって、音楽で生きていきたいという思いは悲願のようなものでもあり、また、その思いがあったからこそ不登校にもなってしまった。
そんな風に感じていたのかもしれません。
その後、自分で受験勉強に打ち込み、合格できたことで、“陽のあたる場所”に出てこれた、そんな思いを持っていたのでしょう。

音楽を嫌いになったわけではもちろんありませんが、
「音楽を仕事にするなんて、ばかげた夢だ」
と思い込もうとしていた節もあったのだと思います。
正直に言えば、迷いもあったはずです。
高校時代には漠然と描いていた、「音楽大学に入りたい」と言う思いもありました。
音楽への思いが強かった私は、何か将来につながる進学ができれば、と考えた時期もあります。

ですがそれは現実的ではなく、それでもこうして、第一志望の学校に入れたのだから、そこで自分にできる最高の努力をしたい。
そう考えたのでした。
それが私にとって、公認会計士の資格を取得する、ということだったのです。

ではなぜ、他の資格ではなくて公認会計士なのか?ということですが、どうせ取るなら難しいのがいい!というわりと単純な理由でした。
私が資格のことを知った時、弁護士などと並び最難関資格とされていましたので。

挫折と不安。迷いと恐れ

順調にスタートを切った資格取得のへの勉強。
しかし、その後で一つの挫折を味わうことになります。

それは、確か11月だったと思いますが、日商簿記1級の試験でした。
この時期、既に私は少し勉強についていくのが難しい状況でした。
講義にも出席しないことが出てきたり、自主勉強も疎かになっていたり。
中でも一番大きかったのは、やはり
「組織の中に溶け込めなかった」
ということではないかと思います。

私にとって、大学と言う場所は地元を離れ、全く新しい環境でした。
以前の記事でも書きましたように、辛いことの多かった地元を離れて心機一転人生をやり直すような気持ちでしたから、私にとって得るものも多くありました。
しかしそれでも、自分の中での本質的な部分はあまり変わっていなかったのです。

それはつまり、人との関わりに恐れていた。
ということです。
中学、高校と人間関係で悩み続けてきた私にとって、やはりそこがどうしても乗り越えられない壁としてありました。

大勢の人が集まる場所ですから、資格の勉強をしていても自然と人との輪ができてきます。
また講師の先生と仲良くなったり、分からないところを教えてもらったり、そうすることでまたモチベーションを維持していける。
それは仲間同士でも同じで、切磋琢磨して勉強に打ち込めるような、そんな環境を作っていけることで、辛く長い勉強生活に耐えられる部分もあると思うのです。

私には、それが無かった。
講義に出ても、ただ授業時間を受けるだけ。
終わったらすぐに帰ってしまう。そんな毎日でしたから、そこに居場所を見つけることは、やはりできていなかったのですね。

そんな状況で受けた、簿記1級の試験。
結果は、案の定というか当然というか、不合格でした。

ここでの挫折が自分の中で大きく影を落とすこととなります。
実際のところ、簿記1級というのは公認会計士になるために必須ではありません。
ですが、広狭の差は有れど受験範囲が似ており、その延長線上に公認会計士の2次試験があるような感じでしたから、ある意味
「本試験のミニ前哨戦」
のような様相を呈していたのです。

そもそも、簿記1級に不合格だったかどうかというよりも、その場所で居場所を見つけられなかったことが、何より自分にとって問題だったのだと今改めて思います。
そこに来ての不合格。
私の中で、ずっと感じていた違和感のようなものが、この結果によりはっきりとした形となって表れて来たように思います。

また音楽の道へ

そんな状況にあった大学1年の冬、私は悩んでいました。
このまま、資格の勉強を続けるべきなのか。
実際のところ、自信を大きくなくしていたことも事実です。
自信をなくし、打ちのめされたような思いでした。

当時、私が興味を持ったのは、作曲ができる機械でした。
「シーケンサー」
というものです。
当時は今のようにパソコン上で作曲ソフトを動かす、と言うスタイルではなく、手軽に操作できるもののそこそこの音質で再生できる、作曲の機械を買ったのです。
それまで、同様の機械を使ったことはありましたが、それは
「ドラムマシーン」
というもので、名前の通りドラムの音しか出せないもの。
バンドではドラムメンバーを探すのが難しく、その場合に代用として使っていたのでした。

しかし、今回手に入れたシーケンサーは、ドラムはもちろんあらゆる楽器を同時に鳴らすことができます。
その鳴らし方は、当然事前に自分で電子的な楽譜に打ち込む必要があるのですが、それでも私にとっては夢のような機械でした。

色々な音楽を再現できる!
自分で作曲したものを、演奏できる!

まだまだ初歩的な機械ではありましたが、その出会いは私にとって驚きの連続でした。
そしてその頃、その機械で作曲した楽曲で、高校時代のバンドで
「ティーンズミュージックフェスティバル」
という音楽の大会に出場しています。(結果は、残念賞でした)

…と言葉で説明しても、どんな機械なのかいまいち分かりづらいかもしれませんね。

楽譜、色々な楽器の音色、鍵盤と、再生&録音機能がすべて含まれている機械と言えば少しはイメージがわきますでしょうか?
ただ、作曲できる機械といっても、その作業はすべて自分で行う必要があります。
自動で何かを用意してくれるわけでもなく、例えばドラム、ピアノ、ギターといった楽器の演奏をすべて、自分で決めていく必要があるのです。
それは作曲と同時に、アレンジ=編曲も行う必要があることを意味していました。

音楽を作る際、メロディラインと簡単なピアノの和音だけ、という状態では、あまりに簡単な表現に過ぎません。
しかも何曲もオリジナル曲を増やしていきたいと思っている私にとっては、その編曲作業も大切なものなのでした。

折角、色々な楽器を使うことができるのだから、機能を十分に使いこなさなくてはもったいない!
そう考えたのです。

そこからはもう試行錯誤の連続でした。
色々と試しては見るものの、うまくいかない。
作曲だけでなく、編曲も自己流でとにかくトライしてはまたやり直す、という作業を繰り返しました。

その機械の良かったところは、試してみた結果がすぐに音となって聞くことができたという点です。
現在の私はパソコンで作曲を行っていますが、機能的には飛躍的に今の方が上ですが、その扱いやすさ、分かりやすさでは、当時のシーケンサーのほうが上だったのです。

この楽器を使ってみたらどうだろう?
この和音をつなげてみたらどうだろう?

そんな色々なアイデアを存分に試すことができました。
その一連の作業は、とても難しくまたなかなか上達しないものではありましたが、今思い返せば大変に勉強になった経験だったと感じます。

機械そのものの操作だけでなく、同時進行的に作曲、編曲の知識も実践で身につけていかなくてはいけない。
大変でしたけど、その作業に没頭することで、自然と知識と技術を身につけていくことができたのでした。

そして、気がつけば、資格の勉強は完全にフェードアウトし、音楽の勉強、音楽制作に取り組むようになっていたのです。

勉強から逃げた、ということかもしれません。
一度は掲げた目標を最後までやりとおさず、辞めてしまったのは事実ですから。

それでも、この回り道も自分にとっては、今思えば意味のあるものでした。
挫折を経験したことで、本当に自分がやりたいことを見つけることができた。
そう思っているからです。

この時期、とにかく私は音楽制作に時間を費やしました。
寝る直前まで作曲作業をして、シーケンサーを枕元に置いて寝る。
朝起きて、すぐにまた作曲を始める。
そんな毎日だったと覚えています。

それほど、自分で作った音楽をすぐに聞くことができるのは、私にとって衝撃的でありました。
色々な作曲をして、色々な編曲を試す。
自分で考え出した音が形になっていく喜び。
自分が何かを作り出していくことができるんだ、そんな思いを感じていました。
ずっと思い描いていた、音楽への夢。
音楽を仕事にするためには、いうまでもなく、音楽を作ることができなくてはなりません。
その第一歩を踏み出せたような気がして、とても嬉しく、充実した日々を送っていました。

これが、私の大学生活の前半です。
人生が音楽中心のものになりつつありました。

実は、大学生活の後半で人生最大級の挫折が待ち受けているのですが・・・
それはまた、別の記事でお話させて頂きますね。

今回も、超特大版の記事となりました。最後までお読み下さり、ありがとうございました!

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