
音楽で生きていきたい。
かつてそんな思いを強く抱いていた私。
今では音楽制作を仕事とし、ソングメーカーとして18年間活動を続けてきました。
けれど、ここまで一直線に進んできたわけではありません。
小学生の頃に音楽と出会い、14歳でギターを始め、19歳から本格的に曲を作るようになりました。
その一方で、いじめ、不登校、大学での留年、会社員時代の生きづらさなど、何度も自分の人生に迷った時期がありました。
このページでは、そんな私が音楽と出会い、自分にできることを探し、33歳で会社を辞めて音楽家として歩き始めるまでを、順を追ってお話しします。
もとになっているのは、私が41歳頃に書いた全13回の連載です。
そこからさらに約10年が経ち、51歳になった今、当時の記録を読み直しながら、出来事だけではなく、それぞれの経験が今の自分にどうつながっているのかも含めて、一つの物語として改めてまとめました。
これは、成功するまでのきれいな物語ではありません。
逃げたこともあります。
失敗したこともあります。
自分に自信を持てず、何をしたらいいのか分からなくなったこともありました。
それでも振り返ってみると、その長い時間の中には、ずっと一つだけ、自分のそばから離れなかったものがありました。
音楽です。
そしてこの物語は、音楽家になる方法を語るものというより、周囲に流され、自分の人生をうまく選べなかった一人の少年が、音楽を通して少しずつ「自分で人生を選ぶ」ようになるまでの話なのだと思います。
小学4年生の音楽の授業から、2008年の独立まで。
少し長い物語になりますが、ここから、私が音楽家になるまでをお話しします。
- 最初に心を動かされたのは、小学4年生の音楽の授業でした
- 14歳、エレキギターが初めて「自分のもの」になった
- いじめられた中学時代。言いたいことを言えなかった自分
- 高校で居場所を失い、不登校になった
- 「ギターしかない」と言われて、初めて本気で自分を変えた
- 東京へ。音楽から離れようとして、やっぱり戻ってきた
- 19歳、本気で「曲を作る人」になる
- 就職という現実と、音楽への未練
- 二度目の就職活動。何度落ちても、もう一度社会へ
- 会社員になっても、「ここではない」という感覚が消えなかった
- 「自分にできることは何か」を考え続けて、二つの答えにたどり着いた
- それでも、すぐには会社を辞められなかった
- 33歳。「自分を信じて、一歩を踏み出す」
- 会社員だった9年間も、遠回りではありませんでした
- なぜ、私は音楽家になることができたのか
- 51歳の今、あの頃の自分に思うこと
- そして、ソングメーカーへ
最初に心を動かされたのは、小学4年生の音楽の授業でした
私が音楽というものを強く意識した最初の記憶は、小学4年生の頃までさかのぼります。
学校の音楽の授業で、先生が一枚のクラシックのレコードを聴かせてくれました。
その曲が、スッペの「軽騎兵」序曲でした。
今でも覚えています。子どもながらに、強烈に心を動かされました。
美しい旋律。
次々と変わっていく場面。
躍動感のある部分から、静かな部分への変化。
そして、音楽が大きく盛り上がっていく感覚。
それまでにも歌や音楽を聴くことは当然ありましたが、音楽そのものによって、これほど感情を揺さぶられた経験は初めてだったように思います。
そして、その日のことには、もう一つ偶然がありました。家に帰った私は、自宅にクラシックのレコード集があったことを思い出しました。
もともとクラシックをよく聴く家庭だったわけではありません。それなのに、そのレコードの中に、学校で聴いたばかりの「軽騎兵」序曲が入っていたのです。
父が当時オーディオを好んでいて、自宅には大きなスピーカーやアンプがありました。そこから流れてくるレコードの音を聴きながら、私は学校で感じた感動を、もう一度味わいました。
それから少しずつ、自分から音楽を求めて聴くようになっていきました。
そして小学生だった私をさらに音楽へ引き込んでいったものの一つが、当時夢中になっていたファミコンのゲーム音楽でした。
クラシックとは、まったく違います。一方は、多くの楽器によって演奏されるフルオーケストラ。
もう一方は、当時のゲーム機から流れる、ごく限られた音色による電子音です。
それなのに、どちらにも心を動かされました。
ファミコンの音楽は、使える音の数も音色も限られていました。
それでも、忘れられないメロディがあり、ゲームの場面と一緒に強く記憶に残る曲がありました。
今振り返ると、この二つの体験は、私に音楽の面白さを教えてくれた原点だったように思います。
豪華な楽器が使われているから感動するわけではない。音色や編成がまったく違っていても、良い音楽は人の心を動かす。
もちろん、小学生だった当時の私が、そんなことを言葉にして考えていたわけではありません。
ただ、クラシックの壮大な響きにも、ファミコンのシンプルな電子音にも同じように惹かれた経験は、その後さまざまなジャンルの音楽を作るようになる自分の中に、どこかで残り続けているように感じます。
まだ音楽家になりたいとは思っていませんでした。ただ、音楽には人の心を大きく動かす力があることを、初めて知ったのだと思います。
14歳、エレキギターが初めて「自分のもの」になった
小学生の頃に音楽そのものへ強く惹かれるようになった私が、次に大きく影響を受けたのは、5歳年上の兄でした。
兄は高校時代にバンドを組んでいて、私はその演奏を見る機会がありました。そして兄の影響で、BOØWYをはじめとするロックバンドを聴くようになり、それまでとはまた違う音楽の格好良さに惹かれていきました。
そんな流れの中で、中学1年から2年生頃、私はエレキギターを弾き始めました。
ギター教室へ通ったわけではありません。雑誌を読み、コードや弾き方を調べ、実際に弾いてみる。うまくできなければ、また調べて練習する。
今振り返れば、この頃からすでに、自分で調べ、自分で試しながら身につけていくというやり方を自然に繰り返していたのだと思います。
当時は、とにかくギターを弾くことが楽しくて仕方ありませんでした。好きなバンドの曲をコピーし、少しずつ弾ける曲が増えていく。中学卒業の頃には、兄やその友人たちとバンドを組み、ライブで演奏する経験もしました。
そして中学校の卒業文集には、「5年後の自分」について、こんなことを書いていました。
「ギタリストとしてバンドデビューする。笑っていいとも!にも出る」
今読むと、ずいぶん大きなことを書いたものだと思います。もちろん、その通りにはなりませんでした。
ただ、当時の自分にとっては、それだけギターというものが大きな存在になっていたのでしょう。
それまでの私は、自分が何をしたいのか、将来どうなりたいのかを深く考えることがあまりありませんでした。
親や先生、友人の言葉に影響され、その場その場で周囲に合わせて動いてしまうことも多かったように思います。
自分の中に、これだけは譲れないと思えるものがあるわけでもない。「井村といえばこれ」と言えるようなものもない。
そんな、自分自身の輪郭がまだはっきりしていない少年でした。
だからこそ、「自分はギターが弾ける」ということは、思っていた以上に大きな意味を持っていたのだと思います。
特別な才能があったわけではありません。ギターを弾く中学生も、もちろん大勢いました。
それでも私にとっては、初めて「これは自分のものだ」と感じられるものに出会ったような感覚がありました。
そして少しずつ、こんな思いも強くなっていきました。
「ギターなら、誰にも負けないくらいうまくなりたい。」
何かについてそこまで強く思ったのは、おそらく初めてだったのではないかと思います。誰かに言われたからではなく、自分自身が望んで、もっとできるようになりたいと思う。
その感覚は、後に音楽を学び、曲を作り、自分の人生を自分で選んでいくための小さな始まりだったのかもしれません。
ギターは、初めて自分から「これをやりたい」と思えたものだったのかもしれません。
いじめられた中学時代。言いたいことを言えなかった自分
ギターに夢中になり、自分にも少しずつ「これが好きだ」と言えるものができ始めた中学時代。その一方で、今でも忘れることのできない辛い経験もありました。
私は、中学生の頃にいじめを受けていました。
クラス全体から無視されるという形ではなく、一部の人たちから暴力を受けたり、罵られたりするようないじめでした。
ある日突然、理由もよく分からないまま、そうしたことが始まりました。いつまで続くのかも分からない。
もちろん、体を傷つけられることも辛かったのですが、それ以上に苦しかったのは、自分自身について考えるようになってしまったことでした。
「自分は、こんなことをされるほど誰かにとって嫌な存在なのだろうか。」
そんなふうに考え、自分自身の価値まで否定するようになっていきました。
そして当時の私には、もう一つ大きな問題がありました。嫌なことを「嫌だ」と言えなかったことです。
もちろん、いじめてくる相手が怖かったということもあります。けれど、それだけではなかったように思います。
もともと私は、自分の気持ちを言葉にして相手へ伝えることが、とても苦手な少年でした。
嫌だ。
やめてほしい。
怖い。
辛い。
心の中では、何度もそう思っていました。それでも、その言葉を相手に向かって言うことができませんでした。
今振り返れば、「自分の感情を表現できない」ということは、当時の私の生きづらさの大きな部分を占めていたのだと思います。
周囲に合わせてしまう。
自分の気持ちより、相手がどう思うかを気にする。
辛くても、それを人に伝えられない。
そうして自分の中だけに抱え込んでしまうことが、さらに自分自身を苦しくしていきました。
いじめられていた頃の記憶は、その後も長く自分の中に残りました。大人になってからも、当時の夢を見ることがありました。
30歳頃までは、夢の中で当時の出来事を思い出し、うなされて目を覚ますこともありました。
それほど、自分にとっては大きな傷として残った出来事だったのだと思います。
「あの頃がなかったら、自分の人生は違っていたのだろうか」と考えたことも、一度や二度ではありません。
それでも、今の自分から振り返れば、その時期を一人だけで乗り越えたわけではありませんでした。
決して友人の多いタイプではありませんでしたが、私と仲良くしてくれる友達がありました。
辛い学校生活の中でも、一緒に過ごしてくれる友達がいたことは、大きな支えでした。
そして、もう一つ自分のそばにあったのが、音楽でした。ギターを弾く。好きな音楽を聴く。
人との関係の中では自分をうまく表現できなくても、音楽と向き合っている時間には、少しだけ自分自身でいられるような感覚がありました。
当時の私は、もちろん「この経験が将来の仕事につながる」などとは考えていませんでした。
ただ、後になってこの時期を振り返ったとき、私は自分の過去を語る理由について、「音楽が自分の辛い時期を支えてくれたから」と書いています。
それは、音楽家になった後から都合よく作った物語ではありません。少なくとも、自分の人生を振り返って文章にした当時から、私は音楽とこの経験を強く結びつけて考えていました。
そして今、オーダーメイドで人の音楽を作る仕事を続ける中で、相手が話してくれる言葉や、その言葉の奥にある気持ちをできるだけ大切にしたいと思うのも、こうした自分自身の経験と無関係ではないように感じています。
言いたくても言えないことがある。うまく言葉にならない気持ちがある。
自分自身がそうだったからこそ、その人の中にあるものを急いで決めつけず、できるだけ丁寧に受け取りたいと思うのかもしれません。
音楽はまだ仕事でも夢でもなく、苦しい時間の中で自分をつないでくれる存在になっていました。
高校で居場所を失い、不登校になった
中学校を卒業した私は、地元の公立高校へ進学しました。けれど、その高校を選んだ理由は、「どうしてもここへ行きたい」というものではありませんでした。
学力的にちょうどよさそうだったこと。
家から近かったこと。
兄も通っていたこと。
今振り返れば、自分のこれからを真剣に考えて選んだというより、また周囲の流れに乗るようにして決めた進路だったと思います。
そして高校に入ると、それまでとは大きく違う環境が待っていました。周囲には、ほとんど知らない人ばかり。もともと人見知りで、自分から心を開くことが得意ではなかったうえに、中学時代のいじめの経験もまだ強く残っていました。
周りの同級生たちが少しずつ友人をつくり、新しい学校の中に自分の居場所を見つけていく一方で、私は一人だけ取り残されていくような感覚を持つようになっていきました。
部活動にも入りませんでした。何か他に夢中になれることがあったからではありません。ただ、何となく入らなかった。
その代わり、高校に入って間もなくアルバイトを始めました。
最初に働いたのはファーストフード店でした。学校には居場所を感じられなくても、「自分はアルバイトでは頑張っている」と思えることが、当時の私にとってはわずかな支えだったのかもしれません。しかし、そのアルバイトも人間関係のトラブルをきっかけに、逃げるように辞めてしまいました。
中学時代のいじめ。
高校での孤立。
そしてアルバイト先での人間関係。
短い期間に人との関係でつまずく経験が重なり、私はますます人と関わることを避けるようになっていきました。
次に選んだ仕事は、新聞配達でした。朝早く起き、自転車に新聞を積んで、一人で黙々と配る。
人と接する時間が少ない仕事だったことも、当時の私には都合がよかったのだと思います。
朝刊を配り、家に戻って少し眠り、学校へ行く。放課後になると、今度は夕刊を配りに行く。決して楽な生活ではありませんでした。
それでも、人と深く関わらずに済むその仕事の中に、私はまた一つ、自分なりの居場所を見つけようとしていました。
ところが、その職場で知り合った大人から勧められたことをきっかけに、私はパチスロにはまってしまいます。
高校生でありながら、新聞配達で稼いだお金をパチスロにつぎ込む。今考えれば、とても褒められるような生活ではありません。
ただ当時の自分にとっては、それが楽しかったというだけではなく、寂しさや不安から目をそらすための場所にもなっていたのだと思います。
学校では心を開けない。
友人関係もうまく築けない。
将来、何になりたいのかも分からない。
少しずつ、私は学校そのものへ行くことが辛くなっていきました。そしてある朝、いつものように家を出たあと、公衆電話から学校へ電話をしました。
「体調が悪いので休みます。」
本当は、体調が悪かったわけではありません。学校から逃げたのです。
一度休んだことをきっかけに、それは何度も繰り返されるようになりました。
週に一度だった欠席が二度、三度と増え、やがてほとんど学校へ行けなくなっていきました。
けれど、学校へ行かなければそれで楽になれたわけでもありません。
学校には行けない。けれど、学校へ行っていることになっている時間には家にも帰れない。
そんな高校生に、行く場所などほとんどありませんでした。お金がなくなればパチスロ店にもいられません。
公園へ行ったり、海へ行ったり。何の目的もなく、一人で街をさまよって時間をつぶすこともありました。
その時間には、いつも罪悪感がありました。
今頃、学校では同級生たちが授業を受けている。昼休みには、みんなで話をしている。その一方で、自分はいったい何をしているのだろう。
この先、どうやって生きていけばいいのだろう。学校を休んでいることが家族に知られたら、何と言えばいいのだろう。
そんな不安を、誰にも相談できないまま一人で抱えていました。
本当は、学校へ行きたかったのだと思います。普通に学校へ通い、友達と話し、楽しく過ごせたらどれほどよかったか。
けれど、それができませんでした。
そんな時期にも、音楽だけは自分のそばにありました。
音楽を聴けば、心が動く。ギターを弾けば、一時でも目の前の現実から離れることができる。当時の私は、そんな自分について、後にこう振り返っています。
「何の価値もないように思える自分にも、まだちゃんと音楽を聞いて感動できるだけの力があるんだ。」
現実の状況は何も変わっていませんでした。それでも、音楽を聴いて心を動かされる自分まで失ったわけではない。
そのことが、世界とのつながりを完全に失いそうだった自分を、かろうじて支えてくれていたのかもしれません。
やがて、不自然な欠席や早退が続いていることに気づいた担任の先生から、家へ連絡が入りました。隠していたことが、すべて明るみに出ました。
担任の先生や学年主任の先生、そしてクラスメートまで家へ来てくれました。
自分には学校での居場所などないと思っていました。けれど、こうして心配してくれる人たちがいた。そのことに、申し訳なさと情けなさを感じたことを覚えています。
家族とも話し合うことになりました。そこで私は、こんなことを口にしました。
「高校を辞めて東京へ行きたい。新聞配達の住み込みで働きながら、ギタリストとしてデビューしたい。」
ギターだけは、自分の中で自信を持てるものでした。けれど当時は、音楽を体系的に学んでいたわけでも、東京へ行った後の具体的な計画があったわけでもありません。
今振り返れば、それもまた、苦しい現実から抜け出すために思いついた言葉だったのだと思います。
家族は、その考えを認めませんでした。そして、まず高校だけは卒業するようにと強く言われました。
当時の私は、その言葉をただ厳しいものとして受け止めていたかもしれません。
けれど、自分自身も親となった今は、少し違って見えます。
もしあのとき、何の準備もないまま高校を辞め、東京へ出ていたら、今の自分はなかったかもしれません。
あのとき自分を止め、高校へ戻るように言ってくれたことも、家族なりの愛情だったのだと思います。
こうして私は、周囲の人たちに支えられながら、高校1年生の終わり頃、再び学校へ通い始めることになりました。
あの頃の私は、まだ自分の人生をどう生きればよいのか分かっていませんでした。それでも、音楽だけは手放さずにいました。
「ギターしかない」と言われて、初めて本気で自分を変えた
高校1年生の終わり頃、私は何とか学校へ戻ることができました。
けれど、学校へ戻ったからといって、それまでの自分がすぐに変わったわけではありません。
最初のうちは、長く休んでいた自分が再び教室へ入っていくこと自体が、とても辛いことでした。
周囲からどう見られているのかが気になり、相変わらず学校に自分の居場所があるとは思えませんでした。
それでも毎日通っているうちに、少しずつ学校生活には戻っていきました。
ただ、生活そのものは相変わらずでした。勉強を頑張るわけでもなく、何か新しいことに打ち込むわけでもない。
高校2年生になると、私は何度か赤点を取るほど成績が落ち込んでいました。追試などを受けて何とか進級することはできましたが、それでも危機感を持って生活を変えることはありませんでした。
そんな状態のまま、高校3年生になりました。周囲は少しずつ大学受験へ向けて動き始めます。
進学校だったこともあり、クラスメートたちは将来のことを考え、受験勉強に取り組むようになっていました。
一方の私は、相変わらずほとんど勉強をしていませんでした。当時の成績は、学年約400人の中でも、後ろに数人しかいないほどだったと記憶しています。
そんな頃、私は自分について言われている、ある言葉を耳にしました。
「あいつは、ギターしかない。他には何もできない。」
実際、その頃の私を見れば、そう思われても仕方がなかったのかもしれません。
学校の成績は悪い。
部活動もしていない。
学校生活で何かを成し遂げたわけでもない。
その中で、唯一周囲にも知られていたのがギターでした。けれど、その言葉を聞いた私は、猛烈に悔しくなりました。
「俺だって、やればできるのに。」
それまで長い間、何となく流されるように生きてきた自分の中に、初めて強い反発のようなものが生まれました。
このまま「何もできない人間」だと思われたままで終わりたくない。自分だって、本気になればできるということを証明したい。
高3の夏頃、そんな気持ちから、私は突然のように受験勉強を始めました。
それまでほとんど勉強していなかった分、やるべきことはいくらでもありました。
毎日勉強し、まずは夏休み明けの実力テストを目標にしました。
すると、そのテストで、それまでとはまったく違う結果が出ました。私立文系の科目では学年上位に入り、国語では学年1位を取ることができました。
少し前まで学年の最下位近くにいた自分が、一つの科目とはいえ一番になる。それは私自身にとって、非常に大きな出来事でした。
もちろん、一度のテストで受験が終わるわけではありません。そこから大学入試に向けた勉強を続けることになります。順調なことばかりでもありませんでした。
大学入試センター試験では、思うような結果を出すことができませんでした。
せっかくここまで頑張ってきたのに、やはり自分には無理なのではないか。そう思ってもおかしくない場面でした。
けれど、このときは以前の自分とは違いました。一度うまくいかなかったからといって、そのまま投げ出すのではなく、気持ちを立て直し、最後まで受験を続けました。
そして結果として、第一志望だった大学に現役で合格することができました。
高校1年生の頃には学校へ行くことさえできず、高校2年生では赤点を取り、高校3年生の途中まで学年でも下位にいた。
そんな自分が、本気で勉強し、自分の力で第一志望への合格をつかむことができた。
この経験は、単に大学へ入ることができたという以上に、その後の私の生き方に大きな影響を与えました。
「努力すれば、自分でも変わることができる。」
それまでの私は、嫌なことが起これば逃げたり、周囲に流されたり、自分にはどうすることもできないと思ってしまうことが多かったように思います。
けれど受験勉強では、自分で「変わりたい」と思い、自分で行動し、その結果として現実が変わりました。
このときに得た感覚は、その後、公認会計士を目指して勉強したことにも、独学で音楽を学んだことにも、そしてずっと後になって会社員を辞め、音楽を仕事にする道へ踏み出したことにも、どこかでつながっているように思います。
人生が変わったのは、誰かが自分を変えてくれたからではありませんでした。周囲の言葉がきっかけではあっても、最後に勉強すると決め、毎日机に向かったのは自分自身でした。
音楽とは別のところで初めて、「自分で自分の人生を動かせるかもしれない」と思えた経験でした。
東京へ。音楽から離れようとして、やっぱり戻ってきた
高校卒業後、私は第一志望だった大学へ進学し、東京で一人暮らしを始めました。暮らし始めたのは、日野市です。それまで静岡で生活してきた自分にとって、東京での大学生活は、何もかもが新しい世界でした。
高校時代には、不登校になり、学校へ行くことさえできなくなった時期がありました。その後、受験勉強に打ち込み、自分なりに努力して第一志望へ合格できた。
その経験によって、私は「今度こそ、何かをきちんとやり遂げたい」という思いを強く持っていたのだと思います。
大学に入って間もなく、私は公認会計士を目指すことにしました。簿記や会計を学び、資格取得のための勉強に打ち込む。大学の授業とは別に、資格の勉強にも多くの時間を使いました。夏には合宿もあり、毎日のように簿記や会計と向き合っていました。
高校3年生のとき、あれだけ成績が低かったところから受験勉強によって第一志望へ入ることができた。
その成功体験もあって、当時の私は「頑張れば、今度は難しい資格にも挑戦できる」と考えていたのだと思います。
そして、この時期、私は一度、音楽から距離を置きました。音楽を嫌いになったわけではありません。
それでも、高校時代に音楽のプロになりたいと考えながら、現実の自分は学校にも行けなくなり、将来を見失った。
そんな経験があったからこそ、大学へ入った私は、もう一度「現実的な人生」を歩こうとしていたのかもしれません。
当時の自分を振り返ると、心のどこかで、こんなふうに思い込もうとしていました。
「音楽を仕事にするなんて、ばかげた夢だ。」
音楽ではなく、きちんと勉強をして、資格を取り、社会の中で認められる仕事に就く。
それが、これからの自分が進むべき道なのだと考えようとしていました。
けれど、公認会計士を目指す勉強は、思うようには進みませんでした。難しい試験に向けて勉強を続ける中で、次第に壁にぶつかるようになりました。
高校受験のときのように、努力すればすぐ結果が見えてくるわけではありません。勉強を続けながらも、本当に自分はこの道へ進みたいのだろうか、という迷いも生まれていきました。
資格を取ることが、本当に自分のやりたいことなのか。この先、何を仕事にして生きていきたいのか。せっかく大学へ入り、新しい人生が始まったはずなのに、私はまた自分の将来について考えることになりました。
そして、音楽から離れていたはずの自分は、少しずつ、もう一度音楽へ戻っていきました。
ギターを弾く。音楽を聴く。そしてやがて、自分自身で曲を作ることへと、強く惹かれていくようになります。
現実的ではないからと一度は遠ざけようとしたもの。
けれど、離れたからといって、音楽への思いそのものが消えることはありませんでした。
むしろ、自分の将来を真剣に考えるようになったからこそ、音楽が単なる趣味ではなく、自分にとって本当に大切なものなのではないかという感覚が、少しずつはっきりしていったように思います。
離れようとしたことで、むしろ自分にとって音楽がどれほど大きな存在なのかが分かりました。
19歳、本気で「曲を作る人」になる
大学に入り、一度は音楽から離れようとした私でしたが、結局、音楽への思いを消すことはできませんでした。
そして19歳頃から、私はそれまでとは違う形で、本格的に音楽と向き合い始めます。
それまでは、好きな音楽を聴き、ギターを弾くことが中心でした。けれどこの頃から、「自分自身で曲を作りたい」という思いが強くなっていきました。
もちろん、最初から作曲の方法が分かっていたわけではありません。身近に作曲を教えてくれる人がいたわけでもなく、音楽大学や専門学校で学んだわけでもありません。そこで私は、自分で音楽理論の本を買い、独学で勉強を始めました。
コードとは何か。
スケールとは何か。
メロディとコードには、どのような関係があるのか。
曲は、どのような仕組みで成り立っているのか。
理論書を読み、問題を解きながら、一つひとつ覚えていきました。ただ、本を読んで知識を覚えるだけでは、なかなか自分の中には定着しません。
そこで、学んだことを使って実際に曲を作ってみるようになりました。
曲を作る。すると、分からないことが出てくる。
なぜ、ここではこのコードが合わないのだろう。
このメロディには、どんな和音をつければいいのだろう。
どうすれば、サビでもっと気持ちが高まるのだろう。
疑問が出てくると、また理論書へ戻る。そこで学んだことを、また実際の曲で試してみる。
理論を学び、曲を作り、分からないことがあればまた理論へ戻る。
この繰り返しを続けていくうちに、少しずつ自分の中で音楽の仕組みがつながっていきました。
もう一つ、私にとって大きな教材になったのが、世の中にすでにある楽曲でした。当時よく聴かれていたヒット曲や、自分の好きな曲を何度も聴きながら、ただ楽しむだけではなく、曲の中で何が起きているのかを考えるようになりました。
メロディは、どのように動いているのか。
どんなコード進行が使われているのか。
AメロからBメロ、そしてサビへ、どうやって気持ちを高めているのか。
どのタイミングで楽器が加わり、どこで音を減らしているのか。
イントロから最後まで、どのような展開で一曲が作られているのか。
「良い曲だな」で終わらせるのではなく、「なぜ自分はこの曲を良いと感じるのだろう」と考える。
そんな聴き方へ、少しずつ変わっていきました。
特定のジャンルだけを研究していたわけでもありません。
ロック、ポップス、バラードをはじめ、さまざまな音楽を聴きながら、メロディ、コード、構成、アレンジについて自分なりに研究していきました。
そして、学んだことを使ってオリジナル曲を作る。一曲できたら、また次の曲を作る。最初から思い通りの曲が作れたわけではありません。
それでも、作るたびに少しずつできることが増えていく感覚がありました。
気がつけば、自分のオリジナル曲も少しずつ増えていました。そして音楽制作そのものが、大学生活の中で大きな割合を占めるようになっていきました。
中学生の頃の私は、ギターを弾くことに夢中でした。けれど19歳頃からは、ギターだけではなく、メロディを考え、コードをつけ、曲全体を構成し、さまざまな音を組み合わせて、一つの作品を作ることそのものに惹かれるようになりました。
「演奏する人」から、「曲を作る人」へ。
自分の音楽との関わり方が、大きく変わった時期だったと思います。
そして、この頃に身につけた「分からなければ自分で調べる」「実際に作りながら学ぶ」「既存の音楽から仕組みを読み取る」という方法は、その後も長く私の音楽制作の土台になりました。
当時はもちろん、将来1,300曲以上のオーダーメイド楽曲を作ることになるなど、想像もしていませんでした。
ただ、ここで長い時間をかけてさまざまな音楽を研究し、自分自身の曲を作り続けた経験が、後に人によって異なる希望やジャンルに向き合うための基礎になったことは間違いありません。
この頃から現在まで、私自身が作ってきた楽曲については、私が作ってきた音楽でご紹介しています。
ここから、音楽は「好きなもの」だけではなく、自分が作り続けるものになりました。
就職という現実と、音楽への未練
大学生活の中で音楽制作にのめり込むようになった私にも、やがて避けて通れない現実がやってきました。
就職活動です。
大学3年生になる頃には、周囲も少しずつ卒業後の進路を考え始めていました。私自身も、これから何を仕事にして生きていくのかを決めなければなりません。
音楽は好きでした。曲を作ることも、生活の中でますます大きな存在になっていました。
けれど当時の私には、音楽を仕事にして生活していくという現実的なイメージは、まだ持てていませんでした。
どれだけ曲を作っても、それがそのまま仕事になるわけではない。
音楽を続けたいという気持ちはあっても、では具体的にどうやって収入を得るのか、どこで働くのか、どんな音楽の仕事を目指すのか。
そこまでの道筋は見えていませんでした。
一方で、一般企業へ就職するとしても、今度は何を仕事にしたいのかが、なかなか定まりませんでした。
どんな業界がいいのか。
どんな職種が向いているのか。
どんな会社で働きたいのか。
大学へ入ったときには、「これからは自分で人生を選んでいかなければならない」と思っていたはずなのに、いざ就職という現実を前にすると、明確な答えを出すことができませんでした。
それでも、就職活動は進んでいきます。会社を調べ、説明会へ行き、履歴書を書き、面接を受ける。結果を待ち、落ちればまた次の会社を探す。
そうしたことを繰り返すうちに、私は次第に疲れていきました。
もともと人との関係に強い自信があったわけでもありません。自分自身を評価され、選ばれるという就職活動は、当時の私にとって精神的にもかなり負担の大きいものでした。
それでも何とか活動を続け、最終的には地元静岡の金融機関から内定をいただくことができました。
苦労した末にようやく得た内定でした。家族も喜んでくれました。これで自分も大学を卒業し、社会人として働いていく。ようやく進む道が決まったはずでした。
ところが、その安心感からだったのか、それまでの疲れが一気に出たのか。内定を得た後の私は、燃え尽きたような状態になっていきました。
大学へ積極的に通うことも少なくなり、生活は次第に無気力なものになっていきました。人との関わりも減り、家にいる時間が増えていく。
高校時代とは状況こそ違いましたが、また自分の世界の中へ閉じこもるような生活になっていました。
その一方で、音楽だけは続けていました。曲を作ることには没頭できました。
学校生活や将来のことには気持ちが向かなくても、音楽を作っている時間だけは、自分がやるべきことが分かっているような感覚がありました。
けれど、そんな生活の中で、私は大きな失敗をしてしまいます。
大学を卒業するために必要だった必修科目の試験を受け損なってしまったのです。
全体として必要な単位数は足りていました。しかし、必修科目は別の科目で補うことができません。
後から気づいた私は、何とか再試験を受けさせてもらえないかと大学へ掛け合いました。
けれど、認められませんでした。そして、たった一科目のために、留年が決まりました。
それだけではありません。卒業できないということは、すでにいただいていた就職の内定も、そのままでは維持できません。
就職先にも事情を説明し、何とか一年待ってもらえないかとお願いしました。しかし、それも認められませんでした。
苦労してようやく手にした内定を、自分自身の不注意によって失いました。
その事実を理解したとき、目の前が真っ暗になるような思いでした。もう一年、大学へ通わなければならない。
そして、あれほど辛かった就職活動を、最初からもう一度やり直さなければならない。
何より辛かったのは、そのことを家族へ伝えることでした。私は親へ電話をしました。
留年してしまったこと。せっかくいただいた内定も取り消しになったこと。
電話の向こうから聞こえてくる親の声を聞きながら、私は泣きました。
大人になってから、親の前でそれほど泣いた記憶はありません。
「ごめんなさい」と何度も繰り返していたことを覚えています。
高校時代には、周囲に流され、学校へ行けなくなりました。そこから受験勉強によって一度は自分を立て直した。
大学へ入り、音楽にも打ち込み、そしてようやく就職先まで決まった。それなのに、また自分自身の行動によって、その道を失ってしまいました。
この留年は、私にとって単なる一年の遠回りではありませんでした。自分の未熟さや甘さを、現実の結果として突きつけられた、大きな挫折でした。
一度手にしたはずの「普通の社会人への道」を、自分自身の失敗で失いました。
二度目の就職活動。何度落ちても、もう一度社会へ
留年が決まり、内定も取り消しになった私は、大学生活をもう一年続けることになりました。
ただし、それまでと同じ学生生活を続けられたわけではありません。自分の不注意によって卒業できなくなったのですから、仕送りも止まりました。
生活費は、自分でアルバイトをしながら何とかしていかなければなりません。
そして、それと同時に始まったのが、二度目の就職活動でした。
一年前にも、私は就職活動を経験していました。会社を探し、説明会へ行き、履歴書を書き、面接を受ける。
それだけでも当時の私にはかなり負担の大きいものでした。
その就職活動を、今度は「留年」という事実を抱えた状態で、もう一度やり直すことになったのです。
しかも、スタートは遅れていました。通常なら大学3年生の頃から動き始め、4年生の春から夏にかけて内定を目指していく時期です。
けれど私は、留年が決まってから改めて動き始めました。周囲の学生たちがすでに就職活動を終えつつある頃に、私は一人、また最初から企業を探し始めることになりました。
そして、現実は厳しいものでした。
受けても、受けても、なかなか内定をもらうことができませんでした。
留年について聞かれることもありました。なぜ卒業できなかったのか。どうして一度内定を失ったのか。
自分自身の失敗ですから、言い訳のできることではありません。その事実を説明しながら、それでももう一度、自分を採用してくれる会社を探していかなければなりませんでした。
アルバイトをしながら生活費を稼ぎ、その一方で就職活動を続ける。
結果が出ない日々が続く中で、生活そのものも次第に荒れていきました。
自分の失敗でこうなったという思いがあるからこそ、誰かのせいにすることもできませんでした。
一年前には、一度は就職先が決まり、大学を卒業して社会人になる未来が見えていた。それを失った今の自分と比べると、情けなさを感じることも多くありました。
それでも、就職活動をやめるわけにはいきませんでした。大学を卒業した後、どうやって生きていくのか。
その答えを見つけるためには、何度断られても、次の会社を探して受け続けるしかありませんでした。
そして、長く苦しい就職活動の末に、ようやく一社から内定をいただくことができました。
そのときの私は、仕事内容や条件を細かく比較して迷うような気持ちよりも、「こんな自分を採用してくれる会社があった」という安堵と感謝の方が大きかったように思います。
もちろん、内定をいただいたからといって、まだ安心することはできません。私には、大学を卒業するために絶対に落とせない必修科目が一つ残っていました。
前年、自分の不注意で試験を受け損ない、留年することになった科目です。同じ失敗を繰り返すことだけは、絶対にできませんでした。
その授業には、一年間、一度も休まず出席しました。
そして、いつも教室の一番前の席に座って授業を受けました。今度こそ、この一科目を必ず取る。もう二度と、自分の不注意で人生を止めない。そんな思いがあったのだと思います。
そして無事に単位を取得し、私は大学を卒業することができました。
一年前、本来なら卒業していたはずの大学。たった一科目を落としたことで留年し、内定を失い、就職活動もすべてやり直しました。仕送りがなくなり、アルバイトをしながら生活し、何度も採用を断られました。自分自身の失敗によって始まった一年でしたが、最後はもう一度、自分で社会へ出る道をつくることができました。
内定をくださった会社に対しても、こんな自分を採用してくれたことへの感謝を強く感じていました。
同時に、不安もありました。学生生活の中でも、人間関係で何度もつまずいてきた自分が、これから大勢の人と働く社会の中で本当にやっていけるのだろうか。
そんな気持ちを抱えながら、それでも私は社会人としての一歩を踏み出しました。
遠回りはしましたが、ようやく社会人としてのスタートラインに立ちました。
会社員になっても、「ここではない」という感覚が消えなかった
大学を卒業し、私は社会人として働き始めました。一度は留年し、内定を失い、二度目の就職活動を経てようやく立つことができたスタートラインでした。
だからこそ、採用してくださった会社には感謝していましたし、今度こそ一人前の社会人になりたいという思いもありました。
その一方で、入社する前から大きな不安も抱えていました。
「自分は、大勢の人と関わりながら会社という組織の中でやっていけるのだろうか。」
中学時代のいじめ、高校での不登校。人間関係の中で何度もつまずいてきた自分にとって、毎日決まった場所へ行き、多くの人と働くという生活は、それだけでも大きな挑戦でした。
そして実際に働き始めると、私は早い段階から会社生活に違和感を覚えるようになりました。
仕事そのものだけが問題だったわけではありません。
組織の中で人と関わり、自分の役割を果たし、周囲とうまく関係を築きながら毎日を過ごしていく。
多くの人にとっては当たり前に見えるその生活が、私にはとても難しく感じられました。
次第に、会社へ行くことそのものが辛くなっていきました。朝になると体調が悪くなることもありました。
それでも、簡単に辞めるという考えにはなれませんでした。
苦労してようやく就職できた会社です。ここを辞めても、結局はまた別の会社を探して働かなければならない。次の会社へ行けば、もっと状況が悪くなるかもしれない。
「ここから逃げても、行く場所はない。」
そんな感覚が強くなっていきました。
思い詰めて病院へ相談に行ったこともあります。そのとき伝えられたのは、出社することへの強い恐怖が心理的な負担となっているということでした。
けれど、原因らしきものが分かったからといって、翌日から会社へ行かなくてよくなるわけではありません。
私はその後も会社員として働き続けました。入社して何年か経った頃には、会社へ行くことがどうしてもできず、ほぼ一週間休んでしまった時期もありました。
朝、会社へ行くつもりで家を出ても、そのまま出社することができない。
今振り返ると、高校1年生の頃、学校へ行けずに街をさまよっていた自分と重なるところがあります。
年齢も立場も違います。高校生だった自分は、今度は社会人になっていました。
それでも、「行かなければいけない場所へ行くことができない」という生きづらさは、形を変えて再び自分の前に現れていました。
そんな状態であっても、私は会社員を辞めずに仕事を続けました。決して器用な社会人だったとは思いません。
それでも毎日働き、仕事を覚え、組織の中でさまざまな経験を積んでいきました。後から振り返れば、この会社員時代に学んだことは非常に多く、その経験は後のソングメーカーの事業運営にもつながっていくことになります。
ただ、当時の私には、まだそんなことは分かりませんでした。
毎日の仕事を何とかこなしながら、心のどこかにはずっと、「自分が本当に生きたい場所は、ここではないのではないか」という感覚が残っていました。
そして、そんな会社員生活の中でも、どうしてもやめることができなかったものがありました。音楽です。
仕事から帰れば曲を作る。休日にも音楽制作をする。会社では自信を持てない自分でも、音楽を作っているときには、自分が何をしたいのかが分かりました。
私はまだ、音楽で生活していく方法を知りませんでした。
それでも、何とか音楽の世界へ進む道はないかと模索し続けました。自分で作った曲をデモテープにして送り、オーディションにも応募しました。
しかし、何度挑戦しても、思うような結果は出ませんでした。
音楽で生きたいという思いだけは強い。けれど、その思いを現実へつなげる方法が分からない。そんな状態で、私は必死にもがいていました。
それでも、曲を作ることだけはやめませんでした。オリジナル曲は少しずつ増えていきました。
そして、まだインターネットが今ほど一般的ではなかった時代にも、自分なりに音楽を外へ届ける方法を探していました。
その一つが、当時発行されていた「じゃマール」という情報誌でした。
今のように、誰でも自分の音楽をインターネットで発信できる時代ではありません。私はその雑誌を使って、自分で作ったアルバムを聴いてくれる人を全国から探そうと考えました。デモテープやオーディションで結果が出ないなら、別の方法を試してみる。誰かが自分を見つけてくれるのを待つだけではなく、自分から音楽を届ける方法を探す。
当時の私はもちろん、後にインターネットを使って全国から音楽制作の依頼を受けるようになることなど想像していませんでした。
ただ振り返ってみれば、自分で音楽を作り、自分でそれを必要としてくれる人との接点を探すという行動は、すでにこの頃から始まっていたのだと思います。
会社員として働きながらも、音楽への思いが消えることはありませんでした。
むしろ、会社生活の中で自分らしく生きられないという感覚が強くなるほど、音楽を作っている時間が、自分にとって何なのかがはっきりしていきました。
会社員として生きることを続けながら、それでも心の中ではずっと、「自分の人生はこのままでいいのだろうか」と問い続けていました。
「自分にできることは何か」を考え続けて、二つの答えにたどり着いた
会社員として働きながら、私は何度も考えるようになりました。
自分には、いったい何ができるのだろう。
会社ではなかなか自信を持つことができない。
人間関係にも苦しみ、毎日出社することさえ辛く感じる。
それでも、このまま何も分からないまま生き続けることはできないと思っていました。
では、自分には何があるのか。
何なら、ほかの人より長く続けられるのか。
何をしているときなら、自分らしくいられるのか。
そんなことを、何度も自分に問いかけました。
振り返れば、高校時代には、大学受験をきっかけに自分を変えることができました。
大学に入ってからは、公認会計士を目指して勉強し、途中で挫折しながらも、また別のことを自分で学んできました。
音楽についても同じでした。
誰かに体系的に教わったわけではありません。
本を読み、曲を分析し、実際に作り、分からないことがあればまた調べる。
そうして、少しずつ自分の中に積み重ねてきました。
その過程を振り返っていくうちに、私は一つのことに気づきました。
自分は、独学で何かを身につけていくことなら、かなり長く続けられる。
誰かに与えられた課題をこなすことよりも、自分が知りたいと思ったことを自分で調べ、試し、できるようになるまで繰り返す。
そういう学び方は、自分に合っていたのだと思います。
そして、もう一つ。
自分には、音楽を作ることができる。
会社の中では、自分にできないことばかりが目につきました。
人とうまく関われない。
自信を持って仕事ができない。
周囲のように自然に社会人として振る舞えない。
そんなふうに、自分に「ないもの」ばかりを見ていました。
けれど、音楽について考えるときだけは違いました。
曲を作ることはできる。
何年も続けてきた。
思うような結果が出なくても、やめずに続けている。
誰に言われたからではなく、自分の意思で続けている。
そこには、確かに自分なりの積み重ねがありました。
そして私は、ようやく自分の中で二つの答えを言葉にできるようになりました。
一つは、独学で何かを身につけること。
もう一つは、音楽を作ること。
今振り返ると、この二つは、その後の自分をつくる大きな土台になっています。
音楽制作だけではありません。
ホームページ制作も、インターネットを使った集客も、事業運営も、その後に学んだ多くのことも、まず自分で調べ、実際にやってみるところから始まりました。
そして、その中心にはいつも音楽制作がありました。
当時はまだ、「この二つを使えば独立できる」と明確に考えていたわけではありません。
それでも、自分の中に何か強いものが生まれたことは覚えています。
今はまだ形になっていない。
すぐに仕事になるわけでもない。
けれど、いつかこの二つを使って、自分自身の生き方をつくることができるのではないか。
そんな小さな確信のようなものが、少しずつ自分の中に生まれていきました。
それまでの私は、周囲の中で自分がどう見られるかを気にし、自分に足りないものばかりを考えていました。
けれど、このとき初めて、「できないこと」ではなく、「自分にできること」から人生を考えるようになったのだと思います。
初めて、「自分にはこれがある」と、自分自身の中から答えを出すことができました。
それでも、すぐには会社を辞められなかった
「独学で何かを身につけること」と、「音楽を作ること」。
自分なりの強みと、自分にできることが少しずつ見えてきた私は、以前よりもはっきりと「音楽で生きていきたい」と考えるようになっていきました。
けれど、思いが強くなったからといって、すぐに会社を辞められたわけではありません。
会社員でいることには、当然ながら安定がありました。
毎月決まった給料をいただき、社会人として働き続ける。
会社生活そのものには苦しさを感じていても、その生活を手放して音楽だけで生きていくことには、大きな不安がありました。
音楽を作ることはできる。
けれど、音楽を作れることと、それだけで生活できることはまったく別の話です。
デモテープやオーディションに挑戦しても、思うような結果は出ていませんでした。
自分の音楽を必要としてくれる人が本当にいるのか。
いたとして、どうやってその人と出会えばいいのか。
音楽制作を仕事として続けられるだけの収入を得られるのか。
まだ、何の保証もありませんでした。
そして、私の人生はすでに、自分一人だけのものでもなくなっていました。
会社員として働く中で、私は結婚しました。
妻との生活があり、家庭がありました。
自分だけの夢であれば、「失敗しても自分が困るだけだ」と考えることもできたかもしれません。
けれど、家族がいればそうはいきません。
自分が音楽をやりたいからといって、家族の生活まで不安定にしていいのだろうか。
音楽への思いと、現実の生活。
その間で、私は長く揺れていました。
妻との間でも、何度も衝突がありました。
私が音楽制作に多くの時間を使いすぎたり、会社生活の中で抱えていたストレスを家庭に持ち込んでしまったりすることもありました。
今振り返れば、私自身の未熟さによるところが大きかったと思います。
人との距離をうまく取れず、自分の感情を整理することも十分にできない。
そんな自分の良くない部分を、最も近くにいる妻にぶつけてしまうこともありました。
それでも妻は、何度も衝突しながら、最後には私を見守り、支え続けてくれました。
そして、私たち夫婦には子どもが生まれました。
新しい家族が増え、守るべきものが増えました。
そのとき最初に思ったのは、「家族のために、もっとしっかり働かなければならない」ということでした。
一方で、その思いが強くなるほど、別の不安も大きくなっていきました。
このまま自分は、会社員としてずっと働き続けられるのだろうか。
会社へ行くことさえ辛くなることがある自分が、これから何十年もこの生活を続けていけるのだろうか。
家族を守りたい。
だから会社を辞めるべきではない。
けれど同時に、家族を守るためにも、自分自身がこのままでいいのだろうかという思いも強くなっていきました。
そんな中でも、私は少しずつ、自分にできることを試し始めていました。
その一つが、ホームページを作ることでした。
以前、情報誌を使って自分の音楽を知らない人へ届けようとした経験から、世の中には、自分のことをまだ知らないだけで、自分の音楽を必要としてくれる人がいるかもしれないという感覚を持っていました。
そこで、今度はインターネットを使って自分自身を発信してみようと考えました。
ホームページを作り、自分の音楽を必要としてくれる人を、自分で探してみる。
当時立ち上げたのが、「パルジック音楽工房」というホームページでした。
まだソングメーカーという名前になる前のことです。
もちろん、その時点で「これで独立できる」という確信があったわけではありません。
むしろ、ほとんど何の保証もない手探りの挑戦でした。
それでも、音楽を仕事にするためには、誰かに発見してもらうのを待つだけではなく、自分で仕事につながる場所をつくることができるのではないかと考え始めていました。
曲を作るという自分の強み。
分からないことを自分で調べ、身につけていくという自分なりのやり方。
そして、インターネットを使えば、地域に関係なく自分の音楽を必要としてくれる人と出会えるかもしれないという可能性。
後のソングメーカーにつながるものが、少しずつ揃い始めていました。
けれど、それでもまだ会社を辞める決断はできませんでした。
音楽で生きたいという思いだけでなく、妻との生活があり、家族があり、幼い子どもがいる。
自分一人の人生ではないからこそ、独立という選択は簡単には決められませんでした。
夢を追うことと、家族を守ること。その二つをどうすれば両立できるのか、私は長い間考え続けていました。
33歳。「自分を信じて、一歩を踏み出す」

音楽で生きていきたい。
その思いは、もうずっと前から自分の中にありました。
けれど、会社員として働き、結婚し、家族ができた私は、夢だけで人生を決められる立場ではなくなっていました。
会社を辞めれば、毎月の給料はなくなります。
音楽を仕事にできる保証もありません。
妻がいて、まだ幼い子どもがいる。
自分が失敗すれば、その影響を受けるのは自分一人ではありません。
だからこそ、私は長い間、会社員を続ける未来と、音楽へ進む未来の間で迷い続けていました。
そんな中、一つの出来事が大きなきっかけになりました。
当時の私は、仕事で海外子会社の担当もしていました。
海外出張をすることもあり、あるとき、近い将来、自分が海外勤務になるかもしれないという話を耳にしました。
実際にその人事が行われたかどうかは、今となっては分かりません。
けれど、その可能性を知ったことで、私は初めて本気で自分のこれからを考えるようになりました。
もし海外へ行けば、数年間、日本へ戻れなくなるかもしれない。
妻や幼い息子と過ごす時間も、大きく減るかもしれない。
会社員として働き続ければ、安定した生活はある。
けれど、自分は本当にこのままの生き方を続けたいのだろうか。
「自分らしく生きるとは、どういうことなのだろう。」
その問いを、それまで以上に真剣に考えるようになりました。
そして私は、ずっと心の中にあった選択肢と、真正面から向き合うことになります。
会社を辞め、音楽家として独立する。
もちろん、怖くなかったわけではありません。
むしろ、怖いことばかりでした。
本当に仕事を得られるのか。
音楽だけで生活していけるのか。
家族を養っていけるのか。
数年後に後悔することにならないか。
自分らしく生きたいという思いは、本当に正しいのか。
それは単なる自分のわがままではないのか。
家族を巻き込んでまで追うべき夢なのか。
何度も考えました。
そして、真っ先に相談したのが妻でした。
会社を辞めたいこと。
音楽で生きていきたいこと。
当時、息子はまだ1歳にもなっていませんでした。
普通に考えれば、安定した会社員生活を捨てるには、あまりにも不安の大きい時期だったと思います。
それでも妻は、私の話を聞いたうえで、私を信じてついていくと言ってくれました。
その言葉が、最後まで迷っていた私の背中を押してくれました。
ここまで来ても、絶対に成功するという保証などありません。
けれど、何も行動しないまま、「本当は音楽をやりたかった」と思い続けながら生きていくことにも、私は耐えられなくなっていました。
高校時代には、周囲に流されるように進路を決めました。
人間関係につまずけば、自分の中に閉じこもりました。
会社員になってからも、「ここを辞めても行く場所はない」と思い、苦しくてもそこに留まり続けていました。
けれど、このときは違いました。
誰かが決めてくれるのを待つのではなく、自分自身で、自分の人生を選ぶ。
そう決めました。
年が明けて間もなく、私は上司に退職の意思を伝えました。
会社からは慰留もしていただきました。
長くお世話になった会社です。
辛いことばかりではなく、仕事を教えてくださった方、支えてくださった方も大勢いました。
だからこそ、辞めるという決断を伝えることには、申し訳なさもありました。
それでも、自分の考えを伝え、退職へ向けた準備を進めました。
会社の仕事を引き継ぎながら、その一方で、これから始める音楽の仕事についても準備をしていきました。
そして、2008年3月31日。
私は、会社員として最後の一日を迎えました。
9年間続けた会社員生活が終わりました。
仕事を終え、会社を後にしたときのことは、今でも覚えています。
外へ出て、夜空を見上げました。
翌日からは、もう会社へ行く必要がありません。
ですがもちろん、長い間、あれほど辛いと感じていた会社生活から離れたはずなのに、ただ解放感だけがあったわけではありませんでした。
これからは、毎月決まった給料をもらえるわけではない。
誰かが仕事を用意してくれるわけでもない。
自分で仕事を見つけ、自分で音楽を作り、その仕事で家族を養っていかなければならない。
自由になったというより、自分の人生の責任を、自分自身で引き受けたという感覚に近かったように思います。
不安はありました。
それでも、不思議と気持ちは前を向いていました。
ここまで自分を信じ、ついてきてくれた妻のために。
まだ幼い息子のために。
そして、会社員として自分を育ててくださった人たちのためにも。
辞めたからには、絶対にこの道を仕事として成り立たせよう。
そう思いました。
そして2008年、私はソングメーカーを立ち上げ、音楽制作を仕事とする事業を本格的に始めました。
小学生の頃、音楽の授業で初めて心を動かされました。
14歳でギターと出会い、19歳から本格的に曲を作るようになりました。
いじめや不登校を経験し、一度は音楽から離れようとし、大学では留年し、会社員になってからも何度も自分の生き方に迷いました。
音楽家になりたいと思ってからも、そこへ一直線に進んできたわけではありません。
たくさん迷い、失敗し、遠回りをしました。
それでも最後に、自分で選んだ道へ一歩を踏み出しました。
33歳。ようやく私は、「音楽家になりたい」と願う人から、音楽を仕事として生きていく人になりました。
会社員だった9年間も、遠回りではありませんでした
2008年に会社を辞め、音楽を仕事として生きていく道を選んだとき、私はようやく自分の進みたい場所へ来ることができたように感じていました。
それまでの9年間は、苦しい時間でもありました。
会社へ行くことが辛くなり、自分にはこの生き方が合っていないのではないかと何度も悩みました。
当時の自分にとっては、音楽とは離れた場所にいるように感じていた時期でもあります。
けれど、独立してから改めて振り返ると、その9年間は決して無駄ではありませんでした。
むしろ、一人で事業を続けていくために必要なことを、会社員時代にかなり多く学んでいたのだと気づきました。
私が勤めていたのは製造業の会社でした。
国内に複数の工場や子会社があり、海外にも子会社を持つ組織でした。
その中で働くことで、会社というものが、ただ「商品を作って売る」だけでは成り立っていないことを、実際の仕事を通して知ることができました。
会社には、さまざまな部署があります。
- 何を目指すのかを考える人
- 商品やサービスを売る人
- 必要なものを調達する人
- システムを整える人
- お金を管理する人
- 人を採用し、配置し、育てる人
- 製品を作る人
- 品質を守る人
- 納期や生産を管理する人
- 組織全体が動くように支える人
会社員だった頃には、それぞれを一つひとつ意識していたわけではありません。
けれど、独立して自分で事業を始めてみると、それまで会社の中で多くの人が分担していた仕事を、今度は自分自身で考えなければならなくなりました。
売上やコストの推移を見ながら、これからどうしていくのかを考える。
これは企画です。
全国各地から、自分の音楽を必要としてくれる人を探す。
これは広告宣伝や営業です。
音楽制作に必要な機材やソフトウェアを選び、揃える。
これは購買です。
パソコンやインターネット環境、ホームページなどを整える。
これは情報システムの仕事に近いものです。
売上や経費を管理し、決算や確定申告を行う。
これは経理です。
必要に応じてボーカリストなど外部の人に協力をお願いし、その力を生かして一つの作品を作る。
これは人事や人材活用にも通じます。
実際に楽曲を制作する。
これは、ものづくりの会社で言えば製造です。
完成までに何度も確認し、修正し、希望に近づけていく。
これは品質保証にも似ています。
複数のお客様の案件について、それぞれの進み具合や納期を管理する。
これは生産管理です。
そして、それ以外の日々の細かな仕事を一つずつ処理していく。
これは総務のような役割でもあります。
もちろん、一人で行う小さな音楽制作事業と、大きな製造業の会社が同じだという意味ではありません。
それでも、事業が成り立つために必要な機能という意味では、共通している部分がたくさんありました。
会社員時代に、組織の中でさまざまな部署や仕事を見てきたからこそ、独立後も「今、自分がやっていることは事業全体のどこに当たるのか」と考えながら進めることができたのだと思います。
そして今振り返れば、その経験は、さらに後になって中小企業診断士として経営を学ぶようになった自分にもつながっています。
音楽家になることだけを考えれば、会社員として過ごした9年間は遠回りに見えるかもしれません。
けれど、音楽を仕事として続けるためには、音楽を作る力だけでは足りませんでした。
- お客様を見つけること
- お金を管理すること
- 仕事の流れを整えること
- 品質を守ること
- 将来を考えながら事業を続けること
そのすべてが必要でした。
そして、その土台の一部は、音楽とは関係がないと思っていた会社員時代に、すでに自分の中へ積み重なっていたのです。
当時は音楽から遠回りしているように感じていた9年間も、今の自分をつくる時間になっていました。
なぜ、私は音楽家になることができたのか
こうして振り返ると、私は33歳で会社を辞め、音楽を仕事として生きていく道へ進みました。
けれど、それは決して、子どもの頃から特別な才能があり、その才能だけで一直線に音楽家になったという物語ではありません。
むしろ、ここまで書いてきたように、何度も迷い、つまずき、自分に自信を持てなくなりながら進んできました。
中学時代にはいじめを受けました。
高校では学校に居場所を見つけられず、不登校になりました。
大学へ進んでからも、自分の将来を決めきれず、一度は音楽から離れようとしました。
就職活動では苦しみ、ようやく得た内定も、自分の不注意による留年で失いました。
社会人になってからも、人間関係や会社生活に悩み、会社へ行くことさえ辛くなる時期がありました。
決して、自信に満ちた人生ではありませんでした。
それでも、振り返れば、少しずつ自分の中に積み重なっていったものがあります。
その一つが、「自分でも変わることができる」という感覚でした。
高校3年生のとき、学年でも下位にいた自分が、本気で勉強を始め、第一志望の大学へ合格することができました。
あの経験によって、努力したからといって必ず望んだ結果が得られるわけではないとしても、少なくとも、自分の行動によって状況を変えられることはあると知りました。
そしてもう一つ、自分の中に育っていったのが信じて続ける力だったと思います。
音楽については、すぐに結果が出たわけではありません。
デモテープを送っても、オーディションを受けても、思うような結果は出ませんでした。
それでも曲を作ることはやめませんでした。
誰かに強制されたわけでもありません。
お金になる保証があったわけでもありません。
それでも、自分で音楽理論を学び、既存の曲を分析し、作品を作り続けました。
分からなければ調べる。できなければ練習する。作ってみて、また学ぶ。
そうして独学を続ける中で、少しずつ自分のできることが増えていきました。
今になって考えると、「才能があるかどうか」を判断するより先に、私はただ長い時間、音楽をやめずに続けていたのだと思います。
そして、その音楽そのものにも、何度も支えられてきました。
辛かった中学時代。
学校へ行けなくなった高校時代。
会社へ行くことが苦しかった社会人時代。
その時々で、音楽は自分のそばにありました。
音楽を聴くことができる。
ギターを弾くことができる。
自分で曲を作ることができる。
周囲の中で自分の居場所を見失っても、音楽と向き合っているときには、自分自身を完全に失わずにいられたように思います。
けれど、私がここまで来ることができた理由は、それだけではありません。
多くの人に支えてもらいました。
中学時代、辛い学校生活の中でも一緒にいてくれた友人たちがいました。
高校を辞めたいと言った自分を止め、もう一度学校へ戻るように支えてくれた恩師、クラスメイトがいました。
留年して内定を失ったときにも、厳しく叱りながらも、遠くから見守ってくれた家族がいました。
会社員時代には、社会人として未熟だった自分に仕事を教え、育ててくださった人たちがいました。
会社生活そのものは自分にとって辛い時期でもありましたが、その中で出会った人や学んだ仕事は、その後の人生に大きく生かされています。
そして、何より大きな存在だったのが妻です。
音楽制作にのめり込みすぎたり、自分の苦しさを家庭に持ち込んだり、何度も迷惑をかけました。
それでも、最後まで自分を支え続けてくれました。
まだ幼い子どもがいる中で会社を辞め、音楽で生きていきたいと話したときにも、私を信じてついていくと言ってくれました。
あの言葉がなければ、最後の一歩を踏み出せていたかどうかは分かりません。
そして、2008年に独立してからは、さらに多くの人に支えていただくことになります。
私に音楽を依頼してくださった方々です。
音楽家は、自分で「今日から音楽家です」と名乗るだけでは仕事になりません。
自分の音楽を必要としてくださる人がいて、初めて仕事として続けることができます。
一件の依頼があり、一曲を作る。
その仕事を終えると、また次の方が見つけてくださる。
そうして一つひとつ積み重なり、ソングメーカーは続いてきました。
今では1,000名以上のお客様と出会い、1,300曲以上の音楽を制作してきました。
その一曲一曲が、私を音楽家として育ててくれたのだと思っています。
若い頃の私は、「音楽家になる」ということを、自分自身の夢として考えていました。
自分が認められたい。
音楽で生きていきたい。
自分の作った曲を多くの人に聴いてもらいたい。
もちろん、そんな思いも大切だったと思います。
けれど、実際に音楽家として長く仕事を続けてきた今は、少し違う見え方をしています。
音楽家になれたというより、多くの人との関わりの中で、音楽家にしてもらったという感覚の方が近いのかもしれません。
自信を持てなかった自分が、少しずつ自信を持てるようになった。
何度失敗しても、もう一度やってみようと思えるようになった。
自分にできることを見つけ、それを信じて続けるようになった。
そして、そんな自分を支えてくれる人たちと出会った。
その積み重ねの先に、今の自分があります。
自分一人の力で音楽家になったのではありません。音楽と、多くの人との出会いに支えられながら、少しずつ自分自身を変えてきた結果でした。
51歳の今、あの頃の自分に思うこと
この「私が音楽家になるまで」のもとになった連載を書いたのは、私が41歳頃のことでした。
それから、さらに約10年が経ちました。
ソングメーカーを始めてからは18年。
これまでに制作したオーダーメイド楽曲は、1,300曲を超えました。
そして今は、音楽制作を続けながら、中小企業診断士として企業の経営支援にも携わっています。
41歳の頃に書いた自分の文章を、10年経ち51歳になった今、あらためて読み返してみると、不思議な感覚があります。
そこに書かれている出来事は、もちろんすべて自分自身が経験したことです。
中学時代のいじめ。
高校で学校へ行けなくなったこと。
大学で留年したこと。
会社へ行くことが辛くなったこと。
音楽で生きたいと思いながら、なかなかその一歩を踏み出せなかったこと。
今でも、当時の感情を思い出す場面があります。
けれど一方で、51歳になった今の自分から見ると、あの頃の自分はずいぶん遠いところにいるようにも感じます。
若い頃の私にとって、最も大きな願いの一つは、「音楽家になりたい」ということでした。
音楽を作り、それを仕事にして生きていく。
当時は、それが実現できれば、自分の人生の大きな目標を達成できるように思っていました。
そして33歳で会社を辞め、音楽制作の仕事を始めました。
振り返れば、「音楽家になりたい」という若い頃の夢は、すでにずっと前に実現しています。
けれど、夢が実現したからといって、そこで人生が完成するわけではありませんでした。
一曲作れば、次の仕事があります。
一人のお客様との出会いがあれば、また次の出会いがあります。
事業を続ければ、新しい課題も生まれます。
年齢を重ねれば、自分自身の考え方も変わっていきます。
若い頃は、「どうすれば音楽家になれるのか」を考えていました。
今は、それよりも、「音楽とともに、これからどう生きていくのか」を考えることの方が増えました。
そしてもう一つ、以前より強く考えるようになったのが、「何を残していくのか」ということです。
自分自身が作った音楽。
お客様と一緒に作ってきた音楽。
18年間、仕事を続ける中で学んだこと。
そして、自分がどのように生き、何を考えてきたのか。
そうしたものを、これからの時間の中で少しずつ形にして残していきたいと思うようになりました。
今回、約10年前に書いた文章を読み返す中では、正直に言えば、恥ずかしく感じる部分もあります。
もっと違う選択ができたのではないかと思うこともあります。
人に迷惑をかけたこともありました。
逃げたこともありました。
自分の未熟さによって失敗したこともあります。
ですがあの頃の自分を、今になって格好良い物語へ書き換えたいとは思いません。
弱かったことも、迷ったことも、失敗したことも、そのまま自分の人生だったと思っています。
もし過去を自由に変えられるなら、変えたい出来事はいくつもあります。
いじめられなかった人生だったら。
高校で不登校にならなかったら。
大学で留年しなかったら。
会社員としてもっと自然に働くことができたら。
そう考えることはできます。
けれど、それらをすべて取り除いたとき、今の自分が同じように存在しているかは分かりません。
人の気持ちを簡単に決めつけたくないと思うこと。
うまく言葉にできない思いもあると考えること。
自分にできないことではなく、できることから考えようとすること。
失敗しても、もう一度やってみようと思えること。
そうした今の自分の一部は、きっと、若い頃の経験からできています。
そして何より、あの頃の自分に一つだけ伝えられるとしたら、私はこう言いたいと思います。
音楽を手放さなくてよかった。
結果が出なくても。
誰にも認めてもらえなくても。
会社員として働きながらでも。
自分には無理なのではないかと思った時期にも。
曲を作ることだけは、完全にはやめませんでした。
その小さな積み重ねが、後になって仕事になり、1,300曲以上の制作につながり、今も自分の人生の中心にあります。
41歳の頃、この連載を書いた私は、「ここまで来ることができた」という気持ちで過去を振り返っていたのだと思います。
51歳になった今は、少し違います。
まだ人生の途中にいて、これから作る音楽も、出会う人も、やるべき仕事もある。
音楽家としての自分も、事業を続けてきた自分も、中小企業診断士として新しい仕事を始めた自分も、そのすべてを抱えながら、これから先を生きていきたいと思っています。
音楽家になることがゴールだった人生から、音楽とともにどう生きていくかを考える人生へ。51歳になった今、私はそんな場所に立っています。
そして、ソングメーカーへ
33歳で会社を辞め、音楽を仕事として生きていく道へ踏み出したところで、この「私が音楽家になるまで」の物語は、一つの区切りを迎えます。
けれど、もちろん人生そのものは、そこで終わったわけではありません。
むしろ、ソングメーカーとしての物語は、そこから始まりました。
2008年に独立した当時の私は、これからどれだけ仕事を続けられるのかも、何曲の音楽を作ることになるのかも知りませんでした。
ただ、自分にできることを使って、自分の音楽を必要としてくれる人を探し、一つひとつの仕事に向き合っていこうと考えていました。
そこから18年。
一件のご依頼が、次の一件につながり、一曲がまた次の一曲へとつながっていきました。
気がつけば、これまでに制作したオーダーメイド楽曲は1,300曲を超えています。
よさこい祭りのための音楽。
自分自身の歌や作品を作りたい方のための音楽。
企業や組織の想いを届ける音楽。
大切な人へ贈る音楽。
そして、一人の人生そのものを残していくための音楽。
作る音楽の形や目的は、それぞれ違います。
けれど、18年間続けてきた仕事の根にあるものは、今では一つの言葉で表すことができると思っています。
人の想いから、音楽をつくる。
自分自身を表現するためだけに音楽を作るのではなく、誰かの中にある想いを聞き、その人にしかない音楽へ変えていく。
今のソングメーカーが大切にしているこの考え方も、振り返れば、ここまで書いてきた自分自身の人生と無関係ではありません。
言いたいことをうまく言えなかった自分がいました。
人との関係の中で、自分の居場所を見失ったことがありました。
音楽に支えられ、自分の中にあるものを音へ変えることで前へ進んできました。
だからこそ今は、その人自身の言葉や気持ちを急いで決めつけず、まず聞くことを大切にしています。
何を作れば格好良いかではなく、その人は何を音楽にしたいのか。
そこから音楽づくりを始めたいと思っています。
このページでは、私が音楽と出会い、33歳で音楽を仕事にするまでを中心に書いてきました。
その後、2008年からソングメーカーがどのように歩んできたのかについては、ソングメーカーの歩みにまとめています。
19歳頃から現在まで、私自身が作ってきた音楽については、私が作ってきた音楽でご紹介しています。
また、1,300曲以上のオーダーメイド制作を通して、お客様から教えていただいたこと、音楽づくりについて考えるようになったことは、1,300曲以上の制作から教えてもらったことにまとめています。
そして、音楽家としてだけではなく、事業家、中小企業診断士としての現在の私については、井村淳也についてでご紹介しています。
いじめられたことも。
学校へ行けなくなったことも。
大学を留年したことも。
会社員として悩み続けた9年間も。
音楽家になるまでの遠回りも。
今の自分から切り離せるものではありません。
そして、そのすべての経験の先に、今の仕事があります。
これから先、ソングメーカーの形はまた少しずつ変わっていくかもしれません。
使う技術も、音楽を届ける方法も、時代とともに変わっていくでしょう。
それでも、自分がこれまで歩いてきた人生を振り返るほど、これだけは変わらず大切にしていきたいと思います。
誰かの中にある想いに耳を傾け、その人にしかない音楽をつくること。
人の想いから、音楽をつくる。
それが、今のソングメーカーです。
