お父ちゃんが音楽家になるまで【最終回】~ありがとうの思いを込めて。

(カテゴリー「音楽家になるまで」の13番目、全体では70番目の記事です。記事一覧

皆さんこんにちは!ソングメーカー代表、井村淳也です。

今日もブログを読んで下さり、ありがとうございます!

つくし

今日、息子が友達と遊びに行ったんですが、帰ってきて
「つくしを見たよ!」
と言っていました。

もうそんな季節なんですね。

このところ一気にあたたかくなってきて、もう春はすぐそこという感じです。

花粉も、少し前までは例年の○倍!なんて(脅かすように)報道してましたけど、関東はそれほどでもないらしくて、一安心です。
そしてこの時期は、別れと出会いの季節ですね。

新しい人生に向かって旅立つ人も多くいることでしょう。

皆さんに、どうか明るい未来が訪れますように。

さて今回は、この
お父ちゃんが音楽家になるまで
のカテゴリー、なんと!

ついに最終回を迎えました。

ここまで書いてこられたのも、読んで下さる皆さんのおかげです。
本当に、ありがとうございます!

なぜ、ここまで来れたのか

そして私は、2008年、遂にソングメーカーを立ち上げました。
以後、全国多くの方から900曲を超えるご依頼をいただき、今に至ります。
その中には日本以外の国、外国籍の方からのご依頼もありました。

広く、音楽家・井村淳也を認めて下さった証だと思っております。

本当に、ありがとうございます。

言葉にすれば、数行で終わってしまうこと。
ですが、もちろんその裏には様々な思いがあります。

今回は、私が音楽を作りはじめ、音楽を仕事にすることを夢とし、そしていかにしてそれを実現できたのか。
そのテーマで書かせて頂いてきた、このカテゴリーの最終回として、改めて振り返ってみたいと思います。

それは、今までの自分を省みて、さらに未来へと繋げるためにも。
そして、これまで私を支えてくださったたくさんの人達への感謝の思いを新たにするためにも。

大切な作業ではないかと、思うからです。

自信~自分にもできることがあると思えた

いじめ、不登校、引きこもり。さらに社会人となっても人との関係に悩み続けた。
私にとって、長く自分の心を蝕み続けたもの。それは
「人間関係」
でした。

そうなってしまう、色々なきっかけはあったはずです。
もしかすると周りの環境や、不運もあったかもしれない。
もちろん、自分自身が原因となったこともあったでしょう。

いずれにせよ、それが私の人生で起こった現実でした。
その現実を無かったことにして、逃れることなど出来ませんでした。

だからこそ苦しみ続けたのですが、そんな私が常に悩み続けた理由、それは結局のところ
「自信のなさ」
なのだと思うのです。

自分に自信を持てないから、人との繋がりを恐れ、自分の殻に閉じこもってしまった。
きっかけは、何か辛い過去だったかもしれません。
でもそれが、自分の自信のなさを引き出す引き金となり、さらに人間関係に悪影響を与える。
そんな悪循環の連鎖のようなものに、長い間、飲み込まれてしまったのではないかと思うのです。

そんな私が出会った、かけがえの無いもの。
それが、音楽だったのです。

音楽を作ること。

こんな自分にも、できることがあるんだ。
何かを作り出して、誰かの役に立てるかもしれない。

そう思えることが、自信を無くしていた自分にとって、計り知れないほどの力となったのです。
ズタズタだった自分の心に、癒しの力がわいて来るような、温かい光がさすような、そんな気持ちでした。

もちろん最初は、ただの趣味でしかありませんでした。
それでも、自分の中にある、たった一つの譲れないことが、自分を確実に変えたのです。

信念~自分に向いている方法を見つけられた

そして、私は音楽を作り続けました。

気がつけば、音楽が生活の中心となっていたのです。

そんな私が音楽を身につけていった方法。
それは、
「独学」
でした。

音楽大学に行ったわけでも、何か音楽の専門的な勉強を受けたわけでもありませんでした。
自分自身で音楽理論を学んで、試行錯誤を繰り返しながら、自分なりの音楽を作り上げていったのでした。

そのベースとなったものは、やはり、高校時代の大学入試での成功体験があったのだと思います。

大学に入ってから、また社会に出てからも、さらなる挫折を経験することにはなるのですが、それでも私にとっては
「人生で初めて必死で努力して最後までやり通したもの」
として、いつまでも色あせることのない経験だったのです。

そこに気がついたとき、自分には、その方法が向いているのだと感じました。
独学で音楽を身につけること。
それが自分にとって、最も向いているやり方なんだ。
そう思えたのです。

過去の自分と向き合い、自分に出来るやり方を探す。
色々な失敗を経験して、挫折を味わいながらも、自分にとって向いていたのはどんなやり方だったのか?
それを見つけられるまで、深く深く考えたのでした。

そして見つけた方法。それは、
「信念」
とも呼べるようなものではないか、と思うのです。

「このやり方ならきっとできる!」
そう信じて前を向いて進む。
地道でも、とにかく一歩ずつでも進む。
その繰り返しが、いつか必ず大きな実を結ぶのではないでしょうか。

克服~恐れ、不安、葛藤を、乗り越えていく力を手に入れられた

そんな、自信と、信念。
それらが私の人生を少しずつ変えていきました。

もちろん、最初から一気に世界が180度変わる、なんてことはなく、変化はごく小さいものから、少しずつ。
音楽を作ること、作り続けること。
そして自分自身の中で思いをより強くして、音楽家として独立した。

そこから、たくさんの人たちとの出会いがありました。
ソングメーカーを立ち上げ、育て、今までやってこれたその過程の中で、何があったか。

紛れも無く、私があれだけ悩み続けた
「人との絆」
だったのです。

たくさんの人と繋がり、絆を感じ、支えられながら、今までやってこれたのです。

何ということでしょう!
以前の私であれば、とても考えつかないことでした。

それは、自信と、信念を持つことで、自分が変わっていけること。
自分が長く持ち続けてきた悩みさえも、克服していくことができたということを、意味していました。

新しい自分へ

こうして以前の自分を思い返して記事を書いていると、ふと
「あれ?これは、本当に自分だったのかな?」
と感じることがあります。
時間が経っているということもありますが、まるで夢の中の出来事だったようにも錯覚するのです。

とても奇妙ですよね。
でも、本当なのです。

それだけ、以前の私と、今の私は大きく変わることができたのだと感じます。
もちろん、音楽の力によって。

音楽の力で私は、全く新しい自分に変わることができました。

今の私は。
色々なお客様との繋がりがとても嬉しいです。
初めてお会いする方とのやり取りがとても楽しいです。
何より、自分に自信をもって、明るく元気に接することができるのです!

それも、音楽という存在があったからなのですね。

音楽家になることが出来た今の自分には、迷いはありません。

ただ、まっすぐに未来を見て、音楽家として生きていくのみです。
少しでもより良い音楽を作ることができるように、成長していけるように努めて歩き続けるのみです。

そんな強さを手に入れることができた。
新しい自分に変わることができた。

そんな、今の自分が好きだし、ここまでやってこられたことを誇りに思っています。

たくさんの人達へ、ありがとうの思いを込めて。

こうして書いていると、そんな今までの自分の軌跡をひとつひとつ思い出します。
そして、たくさんの人達への感謝の思いを、改めて感じるのです。

私が人生を変えた、直接のきっかけは、音楽だったかもしれません。
ですが、それから多くの方との出会い、絆が無くては、私は到底今までやってはこられなかったでしょう。

そんな、私の人生を変えて下さった皆さんへ改めて申し上げます。

本当にありがとうございます。
これからも、私、井村淳也は、音楽家として生きていきます。
どうか、ずっとずっと、見守っていて下さい。
皆様への恩返しができるように、これからもがんばっていきます。

これにて、
お父ちゃんが音楽家になるまで
カテゴリーは終了とさせて頂きます。

長らくのご愛読、本当にありがとうございました!
(ブログ自体は、まだまだ続きますよっ)

また、ここからつながるカテゴリーとして、新しく
ライフメーカー~人生はきっと、作り出せる。
を始めていきたいと思っております。

私は今、セミナー講師としても活動させて頂いております。
そのメインテーマでもある、このカテゴリー。
人生は自分の力で良い方向へと変えていくことができるはずなんだ。
そして、それはきっと、誰にでも同じように訪れるチャンスなんだ。

そんな前向きな思いを込めた内容をお届けしたいと考えております。
そちらも、どうぞお楽しみに!

今後とも、当ブログをどうぞよろしくお願いいたします。

【記事案内】
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お父ちゃんが音楽家になるまで(番外編)~以前の会社でお世話になったこと

お父ちゃんが音楽家になるまで(番外編)~以前の会社でお世話になったこと

(カテゴリー「音楽家になるまで」の12番目、全体では68番目の記事です。記事一覧

皆さんこんにちは!ソングメーカー代表、井村淳也です。

今日もブログにお越し下さってありがとうございます!

防衛成功!

つい先ほど、山中選手の防衛戦が終わり、無事に勝ってくれましたね!

相手のカールソン選手も非常にタフで、何度倒されても向かってくる姿がすごかったです。
5・6ラウンドが特に素晴らしかったです。

本当に興奮しました!

危ないシーンもあったと思いますが、それでも最後はしっかり勝てる。
本当に強いチャンピオンですね。

これからも連勝記録を伸ばしていって欲しいと思います!

さて、今日の記事は当カテゴリー・お父ちゃんが音楽家になるまで、の番外編です。
私は2008年に、それまで9年間勤めた会社をやめ、独立しソングメーカーを立ち上げました。
そして、現在に至るわけですが、ここまで来れたのは前職で9年間お世話になった、職場があったからこそ。

留年したため1年間遠回りしたものの、新卒で入ってから9年間働かせて頂いたことで、本当に色々な経験を積ませて頂きました。

私にとっては、辛いことのほうが多かった場所ではありましたが、それでも。
今思い返せば、やはり、あの9年間があったからこそ、今がある。
そう思っています。

どんな会社だったか

神奈川県にある、上場企業の製造業です。
本社勤めで、私は企画部所属でしたが、敷地内に工場があり、日々その製造現場を目にする機会がありました。
間接部門で働きながら、直接モノを作る様子を見ることができたのです。

実は私が入社した1999年当時、業績が芳しくない状況でした。
さらに数年の間はボーナス・賃金カットなど、厳しい経営環境が続きました。
リストラも目にしています。

そんな状況でしたが、見事に業績回復を果たし、私が去る頃は上向きになっていたのではないかと記憶しています。

もちろん、今でも健在!
私もかつてお世話になったひとりとして、嬉しく感じています。

国内に複数工場、子会社があり、海外にも子会社を持っていました。

製造業であり、海外も含め子会社がある。
そんな、言ってみれば会社の一通りの流れ、それは人間関係も含めてですが、を実際に理解できる職場だったのではないかなと思います。

そしてそれが、計らずも今の自分につながっている、独立した自分にとって大変役に立っているのではないかと思うのです。

入り口から出口まで

会社には色々な部署があり、様々な仕事が存在します。
以前勤めていた会社では、ビジネスの上で必要となる、様々な部署・職種の仕事がありました。
初めて会社の組織図、電話帳を頂いた時、その大きさ、複雑さに驚いたのを今でも覚えているくらいです。

いっぽう、今のわたしは音楽家でもあり、同時に事業を運営する立場でもあります。
自分が今、やっている仕事が、ビジネスの中でどのような位置づけになるのか。
以前の会社だったら、どの部署が担当していたのか。
そんなことをイメージしながら進めていくことで、より取り組みやすくなっているのです。

売り上げ、コストの推移。将来への計画。(企画)
全国各地からお客様になって頂く人を探す。(広告宣伝・営業)
音楽制作に必要な機材を調達する。(購買)
インターネット環境の構築、パソコンシステムの整備。(情報システム)
決算、確定申告。(経理)
外部のボーカリスト発掘、音楽プロデュース。(人事)
楽曲の制作。(製造)
修正対応。(品質保証)
お客様ひとりひとりの納期管理。(生産管理)
その他、日々のもろもろ・・・(総務)

少し、大げさかもしれませんが、本質的には同じことだと思うのです。

この中でも、例えば私が担当させて頂いていた、月イチの社内会議がありました。
毎月、様々な部署からあげられる
「今、必要な投資」
についての事務局となり、プレゼンする機会も頂いていました。

今のわたしにとって、そんなプレゼンは必要ありません。
自分が代表ですし、自分の意思がそのまま、事業の決定事項となります。
関係する人数も違えば、金額だってそれこそ桁違いです。

でも、自分の中で
「これはあのとき、社長の前でプレゼンした内容と同じ意味があるんだな」
とイメージしながら事業の計画を考えることで、その重みを感じますし、身の引き締まる思いです。

上司の承認を得ないと先に進めなかった稟議も、すべて自分の判断で決まります。
そんな組織のシステム、流れを自分自身が体験できたこと。

その意味は、自分にとって大変に大きなものです。

辛い日々の中でこそ得られたもの

こうして書いていると、充実した会社員生活を送っていたような印象があるかもしれませんが・・・

実際は間逆でした。少なくとも、自分にとっては。

過去にいじめ、不登校、そして引きこもりといった、人間関係において辛い体験を繰り返した私にとって、会社という場所はやはり、辛く苦しい場所でありました。
多くの人と常に関係する中で、どうしても自分のことを出せない。
いつも何かに怯えながら、周囲に心を開くことができない。

そんな苦しい思いを、入社後から常に感じていました。

入社して4~5年頃だったと思いますが、会社に行くのが本当に辛く、なんと、ほぼ一週間休んでしまったことがあります。

確か、月、火は休み。水曜は出社したもののいるのが辛く早退、そして木、金も休み。
土日に挟まれているので、ほぼ9連休してしまったようなもの・・・!
その次の週明け、本当に出社が辛かったのを覚えています。

今考えれば、よくその時会社を辞めなかったなと不思議なくらいです。

当時は、今の妻と同棲していました。
妻も働いていましたし、もちろん、こんなに休んでいることは妻にも言えず・・・
出社するふりをして、どこかで時間をつぶしていたんですね。

今思えば、高校1年生の不登校の時と同じことをしていたのです。
つくづく、感じます。ダメな社会人だったなあと。

それでも、当時の自分にとってはそれが精一杯でした。
ただ会社に行くこと、何とか社会人でいること、それだけで精一杯だったのだと思います。

そんな自分を変えてくれたのが、音楽。
音楽家として独立すること、それが自分にとってできる唯一の生き方だったんだなと、今改めて感じるのです。

そして、そんな辛かった会社生活の中でも、得られたものがあったということ。
むしろ、辛い日々を必死で、歯を食いしばって過ごしていたからこそ、強烈な印象として今でも自分の中にあり、そして、今の事業に役に立っているのではないかなとも思うのです。

辛い日々を送る人へ。自分を大切に、逃げ出すことを恐れずに。

だからこそ、今、とても辛い状況にある人に伝えたい思いがあります。
今、必死で耐えているその辛さは、いつか必ずあなたの力となります。
その一つ一つの体験が、あなたの中で経験としていかされる日が必ず来る。
私はそう信じています。

自分自身がそうだったように。

辛いことから逃げるのは、恥ずかしいことではありません。
特にまじめな人、責任感の強い人ほど、逃げることができずにさらに自分を追い詰めてしまう。
弱い自分ではダメだ、もっと強くならなくては、と自分を追い込んでしまう。

その先に待っているものは、おそらくさらに辛い現実でしかない。
自分を大切にして欲しい。
自分のことを守れるのは、結局自分しかいないのです。

私は、辛い会社生活から解放され、音楽家となりました。
それは間違いなく、自分が長く描き続けた夢でした。
それを実現できたことは、最後は自分のことを大切に思っていたからなんだと思うのです。
自分なんかどうなってもいい、と思っていては、辛い場所から動き出す力、前へ踏み出す勇気もなくなってしまう。
そうなってからでは遅いのです。

「いつかこの場所からいなくなってやる。そして自分のやりたいことをやるんだ」
と思えること。
たったそれだけのことで、人は希望を持つことができます。
そして、勇気が、元気がわいてくる。

そんな風に思えば・・・ほら、何かが聞こえてきませんか?

「そうだ 恐れないでみんなのために 愛と勇気だけが友達さ」
そうです!アンパンマンのマーチです。

私の大好きな曲。
今なら分かる気がします。
この不思議な表現の歌詞
[愛と勇気だけが友達]
という意味が。

自分を愛して、その先にある、誰かを愛するという思い。
勇気を出せること。そして困難に立ち向かい、未来を切り開くこと。

いつか自分が変わっていける、明るい場所に立てること、笑顔でいる自分を想像すること。
本当の意味で自分を助けてくれるのは、最後は自分自身の心なんだ。

そんな思いを持つことができたなら、きっと、人生は変わっていくのではないでしょうか。

そして、私にとっての9年間。
辛いこともありましたが、私の人生に大きな変化をもたらした9年間として、今でも大切に思っているのです。

あの頃があったから、今がある。
この場を借りて、9年間でお世話になった人たちへお礼を伝えたいと思います。

本当にお世話になりました。
井村は、今こうして自分の生きる道を見つけ、必死に音楽を作り続けています。
とても大変な毎日ですが、辛いとは思いません。
音楽家として生きていくことが、自分の使命であるとさえ感じています。
皆さんに育てて頂いたこと、経験させて頂いたことをこれからも忘れません。
ありがとうございました。

今回も長い記事でしたが、最後までお読み下さりありがとうございました。
そして、次回はいよいよ、この「お父ちゃんが音楽家になるまで」カテゴリー、最終回を迎えます。どうぞご期待下さい!

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皆さんこんにちは!ソングメーカー代表、井村淳也です。

今日もブログを読んで下さり、ありがとうございます!

パリパリチキンカレー ライス少なめ

今日のお昼は、久しぶりのココイチでした。

色々なメニューがあって、迷いますよね!
でも私の定番は、ずっと前から同じ。

パリパリチキンカレー
です!

から揚げの皮がパリッパリで本当においしい♪

そして、最初食べたときにご飯が多くて、お腹が苦しくなってしまったので、ライス少な目もいつものパターン。
辛さも普通で。

ココイチのカレーは、ずっと熱いままで本当においしいですよね!
やっぱりカレーと、ラーメンは、熱々で頂きたいものですね。

さて、前回の音楽家になるまでの記事では、違和感を抱えながら辛い社会人生活を送る私の、心の中に生まれたひとつの答え。
自分にとってできること、自分の強みは何か。

それが何かに気がついた、というところまでをお話させて頂きました。

それはつまり、こういうことでした。
私の強み。それは、独学で何かを身につけること。
そして私に出来ること。それは、音楽を作ること。

“強み”と、“できること”を見つけることができた私は、少しずつですが、前を向いて歩き始めたのです。

わずかな可能性にかけ

そんな中で私は、ひとつの行動を起こします。
それは、ホームページを作ることでした。

以前の経験から、世界の広さ、自分のことを必要としてくれる人がどこかにいるかもしれない、という可能性を身をもって知っていた私。
それはまったくの手探り状態ではありましたし、言ってみれば何の保証も無く、宝探しのようなあての無い希望でしかなかったかもしれません。
それでも、私はそんな可能性にかけてみたい思いで一杯でした。

ホームページを作り、自分自身を発信していこう!
自分の作る音楽を必要としてくれる人を探そう!
そう考えついたのです。

その時はまだ、ソングメーカーという名前ではなく
「パルジック音楽工房」
というホームページでした。

閉鎖して9年ほど経ちますので、現在は何も残っていませんが、ソングメーカーへのリンクだけはネットに存在します。
まだ独自ドメインも取得しておらず、こうして見ると長いURLですね!

今のわたしは、音楽家として専門的にお仕事していますが、当時はサラリーマンの傍ら、このような活動を始めたのでした。
その頃はまだ、
「いつか自分が独立して音楽を仕事にできる」
そんな日がくることなど、ほとんど想定していなかったに違いありません。
それでも、どんな形であれ、自分の信念を実現できるようにしたかったのだと思います。

ホームページを作ることもゼロから調べ、必死で取り組んだものでしたし、どうやって自分を発信していくか、自分を必要としてくれる人を見つけていくのか、分からないことばかりでした。
それでも私は、日々、生き生きと音楽活動をしていました。

なんと少しずつ、ほんの僅かながらですが、お客様も見つかるようになったのです!

まだまだ営業活動も本格的にはできませんし、そもそもサラリーマンの傍らですから、どうしても様々な制限があります。
そんな中でも、自分の音楽を必要としてくださる人がいる!
その事実は、私の確かな自信につながっていきました。

少しずつお仕事が増えていく。
少しずつ自分の音楽を認めてもらえるようになっていく。

それは私にとっては、何物にもかえがたい喜びでした。

音楽制作が一つの結果として、現実のものとなっていく。
それは今までの経験ではなかったことです。

何か、新しい可能性を確かに感じていました。
それがすぐに「仕事にできる」というほどのものでは到底ありませんでしたが、それでも自分にとっては大きな一歩、いや、十歩も百歩も進んだような思いを感じていました。

サラリーマンとして

そんな私でしたが、会社では相変わらず、自分を出すことが出来ずにいました。
そんな状況に悩むのは、何年経っても同じだったのです。

そして勤続年数を重ねることでそんな私にも役職を与えて頂けるようになります。
仕事も当然、より責任の重いものへとシフトしていきました。

今思えば。
もっと自分から心を開いて、上司なり、先輩なりに、率直な自分の状況、悩みを相談すれば良かったのかも知れません。
今の私ならそれが分かります。
そうすれば何らかの解決の糸口が、もしかしたら見つかったかもしれない。
少なくとも、自分の中では何かが変わるきっかけを得られたでしょう。

ですが、どうしてもその時の私にはそれができませんでした。
そんな風にしか生きられなかったのです。

これはただの結果論でしかありません。
そして、その頃の私にはやっぱり、そんな行動は取れなかったのですよね。

それが結局のところ、私自身の生き方だったのだとも思うのです。
その自分の決めた生き方があり、その先に今がある。

苦しい心を抱えながら、必死に生き方を探そうとしていた当時の自分のことを、今なら自分でほめてあげられるような、そんな風に思っています。

妻との衝突

そしてその頃、頻繁に夫婦間で衝突がありました。

日々、必死な思いを抱えながら生きていた私。
“音楽が好き”ということはもちろん理解してくれていましたが、私がたとえば音楽制作に時間をとられすぎたり、日々のストレスをぶつけてしまったり・・・
そんなことは一度や二度では無かったのです。

改めて、私の至らなさが原因だったなと思います。

もともと私は、人との距離感をつかむことがうまくできず、ずっと悩み続けていました。
妻とはいえ、そんな私の良くない部分をぶつけてしまい、傷つけてしまうことも度々ありました。

そんな私のことを、何度も衝突しながらも最後は見守って支え続けれくれた妻には、感謝の思いしかありません。
ただ私を信じて、ついてきてくれたこと。

妻がいるから今があります。
当時の妻は自身でも仕事を抱える中、日々、私のことを支え続けてくれたのでした。

そんな妻がいてくれたから、やってこれたのです。
感謝の思いは、どれだけ伝えても伝え切れません。

新しい家族が増えて

そんな中、私たち夫婦に神様からの贈り物が届きました。
新しい家族が増え、守るべきものが増えたのです。

(よし、改めて、頑張って働いていこう!)
まず真っ先に、そう思いました。

その時の私は、仕事に対するという前向きな気持ちと、その反動でより強くなったプレッシャーの狭間で揺れ動いていました。

家族のためにがんばりたい。
その気持ちは、もちろん本心から出たものでした。
でも・・・
こんな自分でやっていけるだろうか。
これから先、仕事をずっと続けていけるだろうか。

不安な思いが、どんどん大きくなっていくのでした。
そんな自分が嫌だったし、何とかしなくてはいけない、そう思うものの、心はどうにもなりませんでした。

日常はまた、同じように訪れました。
相変わらず、会社での辛い時間を過ごす毎日が始まったのです。

ターニングポイント

そんな状況下で私は、一つの噂話を耳にしました。

当時の私は仕事で、海外子会社の担当もしていました。
何度か海外出張も経験させて頂いていたのですが、
「近々海外に転籍になるかもしれない」
という噂を、耳に挟んだのです。

もしかして、実際には実現しなかったかもしれません。
それでも私は、大きな悩みの中にいました。

相変わらず辛く悩んだり落ち込むことばかりの会社生活。
そして、海外に行けば数年間は帰ってこられなくなる。
そうなれば、家族とは長く会えなくなってしまいます。

妻や息子との時間は、何よりも大切にしたい。
私は常々、そう思っていました。
そんな自分にとっては、その頃から本気で一つの選択を真剣に考え始めることになります。

それは、
「会社をやめ、音楽家として独立して生きていく」
ということでした。

途方も無い夢のようなものに過ぎないことは、十分承知しているつもりでした。
それでも私は、どうしても自分が変わりたいと思ったのです。

自分らしく生きるために。
前を向いて生きるために。

でもそれは、
自分のエゴではないのか?
家族を巻き込んでいいのか?

必死で考え、悩み続けました。

音楽を仕事として生きる。
何の保証も、あてもない世界に飛び込むことになる。
何をどうすればいいのか?
まずそこから考える必要がありました。
そんな、あまりにも不確かな道を選ぼうとしていたのです。

人生でもっとも悩んだ時期ではなかったか、と思います。

ですがその悩みは、決して苦しいものではなく、前向きな思いのほうが強かった。
新しい自分に変わっていきたい、もっと自分の力を発揮して生きていきたい。
そんな、明るい未来への希望を強く感じさせるような、不思議な力が自分の中で生まれてくるのが分かりました。

誰でもきっと、変われるんだということ

今思えば、本当に不思議でした。

「きっと、うまくいかない」
とは思わなかったのですから。

私が思っていたことは、ただ、自分にできることを、自分の得意なやり方でやっていこう、ということ。
そうすれば、きっと、道は開けるはずだ。

ただ自分を信じていました。
信じることができました。

きっと、その時の私は既に、新しい自分に変わり始めていたのだと思うのです。

人は誰でも、変わることができるのではないかと思います。
その方法、行動は人それぞれでも、自分らしい生き方を手に入れること、胸を張って生きていけるようになること。
誰にも等しく訪れる、変われる機会があるのではないかと思うのです。

私は全く普通の人間に過ぎません。
特別な能力もなければ、才能に恵まれたわけでもない。
それでも、ただ自分を信じることができたこと、そして人生を変えられたこと。

そのことが何よりも、物語っているのではないかと思います。
きっと誰でも、人生を良い方向に変えていくことができる、ということを。

決心、退社へ

そして2008年の年明け。
ついに私は、9年近く勤めた会社を辞めることを決意しました。

もちろん、真っ先に相談したのは妻でした。
仕事をやめたいということ。
音楽で食べていきたいということ。
あろうことか息子がまだ、1歳にも満たない時期に、です。
普通に考えれば、とても受け入れられないような話ですよね!

それでも妻は、ただ、私を信じてついていくと言ってくれたのです。

正直に言えば、その時点では自分の中でまだ迷いがあったのだと思います。
それでも妻がそう言ってくれたことで、私の中で最後の決心がつきました。

そこから先は、もう、あっという間でした。

年明けの仕事が始まり、すぐに上司に退社の意思を告げました。
慰留して下さったのですが、真剣に思いを伝え、最終的には理解して頂いたと思っています。

そこから3月末の棚卸しに向けて、退社準備を進めていきました。
並行して、新しく立ち上げる事業の準備も行っていきました。

そして2008年3月31日、サラリーマンとしての最後の一日を終えた私は、心機一転、新しい事業を立ち上げていくこととなります。

心の中は、正直に言えば不安も当然ありました。
言うまでも無く、ちゃんと仕事としてやっていけるだろうかということ。
家族を養っていけるだろうかということへの不安です。
それでも、私を信じてついてきてくれた妻のためにも、そしてまだ幼い息子のためにも。
不安もありましたがそれ以上に、絶対に成功させるんだという強い思いを持っての、独立生活のスタートだったのです。

そして、こんな中途半端な状態でお世話になった会社を辞めたことに対する、恩返しのような思いもありました。
やめたからには絶対に成功して、幸せになった姿を見て欲しい。
そんな風にも考えていました。
こんな自分でも、社会人として育てて下さった、たくさんの人たちに対する恩返しをするんだ。
素直に、そう思えたのです。

そうして、新しい人生への扉を開いた私。
9年前、新社会人となったときとは大きく違いました。
不安もありましたが、それ以上に、希望に満ち溢れた船出だったのです。

サラリーマンとして最後に見た夜空

2008年3月31日。
最後の棚卸しを終え、夜遅く帰路に着いた私は、その夜空がたいへんに美しかったことを今でもはっきりと覚えています。

さまざまな思いが去来し、胸を打ちました。
ですが、私の心の中を一番満たしていたもの。

それは、未来への希望だったのです。
明るい明日を夢見て、一歩を踏み出そう。

そんな前向きな心で、9年間お世話になった会社を後にしたのでした。

今回も大変長い記事となりました。最後までお読みくださり、ありがとうございました!

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皆さんこんにちは!ソングメーカー代表、井村淳也です。

今日も当ブログへお越しくださり、ありがとうございます!

電気自動車

先日、我が家の愛車を12ヶ月点検に出したのですが、そのときにお借りした代車がなんと!
電気自動車でした。

正直、驚きの連続体験でした。
エンジン、ならぬ電源を入れても、ほとんど音がしないんです。

ディーラーの方から
「アクセル一発目から最大トルクが出ますので、気をつけて発進して下さい」
と言われていたので、気をつけて・・・

その加速感は想像以上でした。
言葉にすれば
「ヒュイーーーン」
という感じです。

まるで未来に行ってきたかのような不思議な体験をさせて頂きました。
1985年にタイムスリップするようなことは、ありませんでしたけどね!

さて今回は、お父ちゃんが音楽家になるまでの続き。
このカテゴリーも早いもので、10個目の記事となります。

私が留年しながらも何とか2度目の就職活動にて内定を頂き、晴れて社会人としてのスタートを切ってからの内容です。

その船出は、決して順調とはいえないものとなったのでした。

新社会人として

以前の記事でも書かせて頂きましたが、私は幸運にも、何とか留年時代に新たな内定を頂くことができました。
留年時代、必死で掴み取った唯一の内定でした。
おそらくは、たまたま採用枠に一つ空きができたため、タイミングよく滑り込むことができたからだったと感じています。

私には事実上、選択肢は無く、その会社にお世話になることに決め、そして大学も今度は無事に卒業。

そして、晴れて社会人となったのです。

しかし、私にとってその社会人生活は、後に大きな試練となったのでした。
ある意味、人生で最も大きな試練でした。

その違和感は、入社後すぐに

雇って頂いたのは、規模の大きな製造業の会社でした。
ですから当然、多くの人たちと接する機会があります。

そんな中、私は、また一つの問題に直面するのでした。

どうしても、自分の心を開くことができないのです。
ありのままの自分でいることができない。

本来、会社は仕事をする場です。
仕事をして、お金を頂くために行く場所。
だから、友達と一緒にいるのとは当然違います。
割り切った人間関係を構築できる人もいることでしょう。
ですが私の場合は、そういうレベルの話ではなく、ただその場にいるだけでも辛さを感じていたのです。

常に周りの目を気にしながら、何かに怯えながらの毎日でした。
私は自分の中で壁を作り、会社の組織の中にいるにも関わらず、自分の世界から外へ出て行くことがどうしても出来なかったのです。
割り切ることも、近づくこともできない。
同期、同僚、先輩、上司、後輩。
そのいずれに対しても同じでした。

社会人ですから、当然、その責任は学生時代とは全く違ってきます。
一人の大人として扱われるということは、当然、それだけの責任感を求められることになります。

そんな中、私が常に感じていたこと。
いつも自分を試されているような感覚。
怒られるんじゃないか、怒鳴られるんじゃないか。
そんな強迫観念のようなものをいつも感じながら、必死で、会社での自分を演じていたと思います。

とにかく必死でした。
仕事そのものよりも、ただ、会社で過ごすということに大きな労力を使っていたと思います。

そうなってしまった理由は、やはり、中学時代から何度も何度も繰り返された、人間関係での辛い経験からなのだと思うのです。

自分に自信を持てない。
周りに心を開くことができない。
人からどう思われるか、そのことばかりを気にして過ごしていました。

そんな状況で、仕事に身が入るはずもありません。
仕事で結果を出せず、さらに自信をなくしていくという悪循環に陥っていました。

そんな違和感、い辛さは、実は入社して程なく感じたものでした。

率直に言えば、会社を辞めたいと考えたことは一度や二度ではありません。

それでも、私はこう考えていました。

ただでさえ留年して、やっとの思いで入社できた。
あれだけ、辛い2度目の就職活動の末、手に入れた社会人生活。

絶対に、辞めるわけにはいかない。

どんなに辛くてもこの環境で頑張るしかない。
逃げるわけには、いかないんだ。
そう思っていました。

それは困難に立ち向かう強さ、というよりもむしろ、もはやどうにもならない自分を追い込む決死の覚悟のようなものであったと、今でも感じています。
その先にあったものは、私の場合は、解決ではなく、より自分自身を追い詰めるだけの結果でした。

会社にはますます行き辛くなり、出社恐怖症に

日に日に、会社に行くのがとても辛くなりました。
朝になると、体調が悪くなることもしばしばありました。
思いつめた私は、一度、病院に行って相談したことがあります。

その時の診断としては、
出社恐怖症
というものでした。

私にとって、その診断はどこかで予想していたものだったのでしょう。
おそらくは心理的なもので、体のどこかが悪かったものではなかったのです。
特に驚きもありませんでした。

むしろ、そんな状況でも変わらずこれからも出社しなくてはいけないという現実を、改めて感じたのを覚えています。

病院に行ったところで、誰かが助けてくれるわけでもない。
もし今の会社を辞めたところで、またどこか別の会社に入らなくてはならない。
今よりももっと悪くなる可能性もある。
もう逃げ場は無い。
そんな風に感じました。

本来、自分の性格的なものが原因なのだと思います。
それでも、自分に自信を持てない場所にこうしていることで、自分を追い詰めていたのは間違いありませんでした。

日に日に行きづらくなる会社。
精神的に極限まで追い詰められていたのではないかと思います。

そんな自分でもまだ、何とか自分で自分の行動を選択することができていました。
何とか自分の意思を失うことだけは無かった。
それは、以下のような体験、思いがあったからなのです。

それまでの自分にとって、唯一自信を持てた体験

そんな私ですが、過去、自分に自信を持つことができた経験もあったのです。

それは、以前の記事でも書かせて頂きましたが、大学入試でした。

人生で最も勉強していた時期。
暗い高校生活の逆転を実現できたのは、紛れも無く、大学入試だったのです。
不登校となり、退学寸前まで行った私にとって、高校生活の最後を飾れた大学入試での成功は、それまでの私の人生で間違いなく誇れるものでした。

その思いは、大学を卒業して社会人となってからも、消えることは無かったのです。

自分でも、やればできるのに。
社会人生活では大きな壁にぶち当たっていた私でしたが、そんな自負は残っていました。
学歴云々の話ではなく、自分がその時できる最大の努力をしたことで、結果を出せたこと。
その事実が、自分の中で大きなものだったのです。

ただ問題は、そのわずかな自信も、今目の前にある現実の中で消えかけていたと言うこと。

大学入試は、決してゴールではない。
社会に出るための通過点の一つに過ぎない。

分かりきっていたことですが、それを改めて突きつけられたように思います。

こうして、辛い社会人生活を、これからずっと、何十年も耐え続けていくしかないのか。。。
そんな絶望にも似た思いを、いつも感じていたのです。

あれだけ努力して掴み取った自分の未来は、こんなにも辛いだけの毎日だったのか。
そう考えると、心は重く苦しいものになっていきました。

そして、音楽活動は・・・

この頃、音楽活動はというと。

留年が決まり、とにかく就職しなくてはという現実に直面した際、一旦は音楽活動をする余裕が無くなってしまいました。
日々の生活も困窮し、とてもそれどころではないという状況だったのです。

ですが、気がつけばまた、音楽を作ることをしていたのでした。
そしてそれは、社会人になってもずっと、変わらず続けていたことです。
振り返れば、16歳の頃から何となく始めた作曲。
大学に入り、自ら求めてむさぼる様に音楽の知識をつけ、制作を積み重ねてきました。
その頃はもう、手探りながらも10年以上の音楽制作キャリアとなっていたのです。

それは、会社でのい辛さ、逃げ出したいとばかり考え、自信を持てない日々の中で、自尊心を何とか繋ぎとめていたものでもあったのだと思うのです。

そんな心が折れてしまいそうな日々の中、
「やっぱり自分にはこれしかないんだ」
という思いを強くしていきました。

音楽を作れる、ということ。言ってみれば、ただそれだけかもしれません。

現実を見れば、資格に合格したり、会社で地位を築いたり、そんな周りの成功が目に付きました。
自分はといえば、会社にただ行くことさえ満足にできず、自己嫌悪を重ねるだけの日々。
音楽を作れるということが、社会人として一体なんの価値があるのか、そう思われることもあったかもしれません。

その不器用な必死さは、滑稽に写ったかも知れません。
それでも、私にとっては特別な、大切なことでした。
心の奥、深いところにあるもの。
世間的な評価を得られるものではないかもしれない。
それでも自分にとっては、絶対に譲れないものだったのです。

たどり着いた一つの答え

音楽の知識、技術は、大学時代から私が独学で身につけてきたものでした。

独学で何かを身につける、ということ。

ある時、ふと気がついたのです。
自分にとってそれが、実は最善のやり方なのかもしれない、ということ。

思えば、大学入試のときも。
周りの人と比べれば、遅すぎるスタートを切ったにもかかわらず、結果を出すことができた。
参考書だけを頼りに自分のペースで勉強したことで、第一志望に合格することができた。

独学は、場合によっては効率の悪い方法かもしれない。
だけど、自分が一番力を出せる方法が、独学なんだ。
それならば、結局はその方法で頑張ることが、一番の近道になるはずだ。

そう思ったのでした。

大切なことは、自分自身に合ったやり方を探すこと。
自分の強みは何か、自分にできることは何か。

私の場合は、それが独学であり、音楽制作だったのです。

その答えにたどり着いたとき、心の中に何か強いものが生まれたことに気がつきました。

今はまだ、不確かなものでしかないけれど。
いつか、いつか自分でこの思いを形のあるものに、実現していくんだ。

そう思ったのです。

現実の日々では、打ちひしがれる毎日を送っていた私でしたが、それでも、心の中に生まれた信念のようなものが、私を動かす力となったのです。

こうして、ようやく自分自身の中で一筋の光を見つけることができた私。
そしてこの2つの答え、独学と音楽制作は、後々の自分にとってきわめて重要な意味を持つこととなっていきます。

ここから先は、次回に続きとさせて頂きます。今回も最後までお読みくださり、ありがとうございました!

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皆さんこんにちは!ソングメーカー代表、井村淳也です。

今日も当ブログへお越しくださり、ありがとうございます!

バレンタインデー

今日はバレンタインでしたね!

私は、学生時代は全く女性からもてなかったので、憂鬱な日の一つでしかありませんでしたが、今は違いますよ!

今年も妻から手作りのチョコレートをもらいました♪なんと20年連続です!
毎年、毎年、
「えっ、これ一体いつ作ってたの?!」
というくらい、手の込んだチョコを作ってくれるんです。

息子と一緒に、おいしいチョコを頂きました♪

美味しいチョコレート、ありがとう(^^)

さて、今回は以前の記事の続き。
大学の留年が決まり、就職内定も取り消しとなった後の、大学生活最後の1年について振り返っていきたいと思います。

就職活動のやり直し

以前の記事でも書かせて頂きましたように、私は大学を留年し、5年間通いました。
4年生のときに頂いていた、地元静岡の金融機関への内定は当然ですが取り消されてしまいました。

人事の方に1年待っていただけないか、必死で掛け合いましたが、ダメでした。

そこからは私にとって試練の1年が始まります。
自業自得なのですが、大変に厳しい現実が待っていました。

まず、仕送りが止められました。
自分の責任で1年間を余計に学生として過ごすことになったわけですから当然だと思います。
何とかアルバイトをしながら生活をしていくしかなかったのですが、特に辛かったのは、その傍らの就職活動でした。

あの大変だった就職活動を、またやり直すのか・・・
しかも、”ただやり直す”だけではなかったことを、それから嫌と言うほど思い知らされることになります。

受けても受けても・・・

1年前とはすべてが違いました。

まず、スタートが大変に遅くなりました。
通常、4年制の大学生の場合は3年生の秋頃から就職活動を始めるのが一般的でした。
そして内定を頂くのは、4年制の夏頃。
実際、私もそのようなパターンでした。

しかし、私の場合は既に新しい学年になってしまっています。
遅すぎるスタートです。
その上、留年というおまけ付きです。

経験したから分かりますが、留年というのは、浪人よりも遥かにたちが悪く、面接でも対応に困ったものだったのです。

年齢的には一浪した人達と同じであるのに、
「なぜ留年したのか?」
という点について面接官は当然のように厳しく追求してきます。

実際、大学に入って周りを見渡せば、一浪している人達が多くいました。
二浪、それ以上の人もいる状況でした。

しかし、私の経験に限れば、就職活動の面接で誰かが
「あなたは、なぜ浪人したのですか?」
と聞かれているのを見た記憶はありません。

それだけ、留年というのは目立つし、特殊な状況なのだと思います。

折角、あれだけ努力して現役で大学に入ることが出来たのに、それを自分で無駄にしてしまった・・・!
そんなふがいない思い、自己嫌悪と、後悔してももはやどうにもならない思いで一杯だったのです。

5年生となり、就職活動は困難を極めました。
いくつ受けても、内定をいただけないのです。
もちろん、留年が決まった3月頃からすぐに動き始めたのですが、それでも状況は最悪でした。
ほとんどが、書類選考で落とされてしまうのです。
その中から稀に面接まで進める会社があっても、やはりダメ。

自分も生活のためにアルバイトをしながら、の就職活動ですから、どうしてもそこに不利というか、隙が生じます。
満足に就職活動できない中、生活が苦しくなっていき、またアルバイトを増やさなくてはいけなくなる。
そういった悪循環も、うまくいかない要因の一つでした。

一度、新潟県に本社のある会社へ最終試験を受けに行ったことがあります。
是非、新潟まで来て下さいというお話でした。

わざわざ遠くまで呼んで下さるのだからこれは、やっと内定を頂けるんじゃないか・・・?
そう期待して臨んだのですが、結果はやはりダメだったのです。

折角、遠く新潟まで行ったのに・・・
この時、改めて打ちのめされた思いになったことをよく覚えています。

現実の厳しさ。
社会に出ることの厳しさ。
そして、紛れも無く自分自身が、今その現実に直面していること。
その現実を何とかしない限り、将来の自分がどうなるか全く分からない。
そんな状況に、今の自分がいるという現実を、思い知らされました。

今頃、同期の仲間たちは入社して、新しい環境でがんばっているのに。
自分は一体何をしているのか。
そんな焦りと、不安で一杯だったのです。

それはまるで、高校1年生の時不登校となり、いく当てもなく街をさまよっていた、あの頃の悪夢の記憶が蘇るようでした。

この頃の生活

僅かばかりの貯金は、急速に底をついていきました。
就職活動を日々、こなしていく中でのアルバイトは、満足に行うこともできず、生活は荒れる一方でした。

この時期が、人生で一番貧乏だったと思います。

まともに三食を食べられませんでした。
光熱費も満足に払えず、ガスを止められてしまったことは一度ではありません。

ちなみに、光熱費を払えない場合。
まず、真っ先に止められるものはガスのようでした。

水道や電気は、すぐに命に影響しますからね!
お風呂は少し入らなくても、死にはしない・・・ということなのかもしれません。

それでも、大変にショックでした。
ある日シャワーを浴びようとお風呂に入っても、水しか出ないのですから!

この頃、アルバイトでガードマンを経験しました。
とにかく当面のお金が無い状況を何とかしなくてはなりません。
そのためには、日雇いですぐにお金を頂ける仕事を探すほかなかったのです。

実際は、確か週払いだったと思います。
一週間のお給料を、次の週の火曜日に頂けるような感じでした。

仕事は、皆さんご存知のように一日中の立ち仕事。
しかも常に車が往来する状況の中、一瞬も気を抜くことが出来ません。

とても厳しいものでしたが、それでも当座の生活費を稼ぐことができるガードマンのアルバイトは、とてもありがたいものでした。
そして、この時の経験はもちろん、私の人生で貴重なものとなっています。
ガードマンのお仕事について、詳細はまた別の記事で書かせて頂きますね。

こうして何とか、生きていくことは出来るようになった私でしたが、それでも貧乏状態には違いありません。
お金はまず光熱費、家賃に優先して使われるようになり、食費は二の次。
満足に食事も取れないような日々が続いていました。

そして、やっとの思いでいただけた内定

そんな生活を繰り返し、このままではフリーターになるしかないのか・・・と思い始めた頃。

やっと、やっと内定を頂ける会社に出会ったのでした。
もちろん、2度目の就職活動で初めての内定でした。

おそらくは、たまたま採用枠にひとつ空きが出た状態となっていたところへ、運よく滑り込めたのだと思います。
実際、話はトントン拍子で進み、あっという間に内定までたどり着けたことを覚えています。

もちろん、決心しました。
とても選べるような状況ではありませんでしたし、この辛い就職活動を一刻も早く終わらせたかったからです。

あとは、たった一つの履修科目を絶対に落とさないように。
その科目は一年間、一度も休まず、常に最前席で受けました。
今度こそ、落としたら次は無い・・・そんな思いもあったのでしょうね。

そして無事、大学を卒業できました。
折角、ご縁があって頂けた内定。
こんな自分を採用してくださったことへの感謝の思いを感じていました。

よし、これから社会人だ。
早く一人前の社会人になって、家族を安心させたい。

そんな思いを確かに抱いていました。
同時に、おそらくはそれ以上の不安も感じていました。

こんな自分で、本当に社会でやっていけるのだろうか。
大勢の人との人間関係を築いていくことができるだろうか。
心は不安で押しつぶされそうになりながらも、社会人としてのスタートを切ることとなったのでした。

今回も、最後までお読みくださりありがとうございました。

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皆さんこんにちは!ソングメーカー代表、井村淳也です。
今日もブログをお読みくださり、ありがとうございます。

カツ煮定食

今日は、埼玉県加須市まで出張レコーディングに行ってまいりました。

バスが渋滞したり、鉄道も運転見合わせが発生したりとハプニングもありましたが、無事に現地に到着!

お昼に行ったのは「Sガスト」なるお店。
私の中では、完全に「ステーキガスト」だと思っていたのですが、どうやら別のお店(Sガスト)のようで、ちょっと残念・・・

でも、ステーキは無かったけど頂いた「カツ煮定食」が、すごおく美味しかったです!

高校生のころ良く行った、地元の喫茶店でよく食べたのです。
昔を思い出すような、そんな味でした♪

さて今回は、
お父ちゃんが音楽家になるまで~番外編
としてお話させて頂きます。

カテゴリの時系列としては別になりますが、お読みいただければ嬉しいです!

私がまだ、サラリーマンになって間もない頃のお話です。

私は必死にもがいていました。
デモテープ・オーディションにはいくら応募しても全く結果が出せず。
音楽で生きていきたいという思いばかりが強く、空回りしていたのです。

何も結果を出せないまま、いたずらに時間は過ぎていきます。
そんな中でも、私は音楽制作だけはやめないで続けていました。

当時、記憶では積み重ねたオリジナル曲は25曲ほどになっていたと思います。

そんな時、私が見つけたもの。
それは、今はなき
「じゃマール」
という雑誌でした。

今回のお話は、当時の私が見つけた、夢へとつながるあたたかな一筋の光の物語です。

どんな雑誌?

当時はまだインターネットもさほど普及しておらず、私もパソコンは持っていませんでした。
それまでは、バンドのメンバー募集などでも雑誌上で行うのが普通でした。
というか、不特定多数に向けて発信する場合、それしか手段がなかったんですよね。

そんな時代に出版されていた、じゃマールという雑誌。
ウィキペディアによれば
「個人間商取引情報と、不特定人物との出会い情報で構成されていた情報誌」
となっています。

これ売ります!
とか
これ探しています!
とか、そういう今でいうネットオークション的な情報交換から、友達募集とか、それこそ上で書いたようなバンドメンバー募集なども、雑誌上で出来たのですよね。

全国紙だったと思いますので、通信販売のような形で、全国にPRすることも出来たわけです。

そこで、井村は考えた

その、じゃマールの情報力に目をつけた私。
それまではオリジナル曲を作っても、ごく身近な人たちにしか聞いてもらうことが出来ませんでした。
デモテープを作っても、全く結果は出せないし・・・

そこで思いついたこと。
よし、このじゃマールという雑誌で、自作のアルバムCDを聞いてみたい、という人を探してみよう!
と思ったんです。

何しろ全国紙ですから、日本中いろんな人が見ているわけです。
その大勢の人たちにアピールできれば、もしかして、聞いてみたいという人がいるかもしれない!

そう考えたんですね。

それで、普通だったら、無料で差し上げます!というところですが、私はなんと・・・
「販売」してしまったのです!

もちろん、それは雑誌の利用規約に則ったやり方でしたし、ちゃんと金額も明記していましたから問題はないのですが、

普通、お金を取るか!?

っていう話ですよね・・・

今思えば無茶というか、妙に自信だけはあったのかもしれません。
その意地のようなものが、良くも悪くも当時の私の個性だったのだと思います。

金額は、確か、送料込み1,000円でした。
10曲入りCDを自分で作って、その金額でお譲りしますという感じだったと思います。

それで、結果は?

そういうわけで、下記が私の載せた記事(記憶により再現)です。

「皆さんはじめまして!シンガーソングライターとしてデビューを夢見る24歳男です。
完全オリジナルのCDアルバムを作りました。買って下さる方、募集中です!
一生懸命作った作品です。音楽に対する思いは誰にも負けない自信があります。
どうか、私の音楽を聴いてください!
全10曲いり、金額は・・・」
こんな感じの文章だったと思います。

これを、自分の顔写真と共に掲載しました。
もちろん、掲載するためにはお金がかかります。広告と同じですからね。
可否については、条件さえ満たしていれば、基本的に必ず掲載されたのではなかったかと覚えています。

それで、気になる結果はと言うと・・・

何と!

何と!

全国から、10人以上の方が買ってくださったんです!(涙)
もしかしたら、20人近かったかもしれません。

これは本当に、本当に嬉しかった。
そもそも、数十文字の文章と写真だけですよ?
楽曲はもちろん、声すら分からない状態です。
それでお金を出して買って下さるなんていうのは、もう、奇跡のようなものです。

もしかして、私の熱意が伝わったのかもしれません。
熱意だけは、誰にも負けないつもりでしたから・・・
その思いを汲み取って下さり、何か、気になるなと思って頂けたのかもしれませんね。

その後、私は買ってくださった方からのご感想も頂きました。

「思っていたような音楽ではなかった」
とか、
「あまり好みの曲じゃなくてガッカリした」
というご意見もありました。
それはそれで、とても落ち込みましたが(と言っても、そのご感想も無理もないものですよね)
中には、
「すごくいい曲ばかりで良かった!」
とか
「これからも頑張って下さい、応援しています!」
というような、とても嬉しいご感想も頂くことが出来たんです。

特に覚えているのは、
「とても優しい声、歌ですね。家族にも聞かせたら、家族もすごく好きだと言っていました」
というご感想でした。

世の中の広さに驚く

この件で私は、色々なことを学びました。

今まで自分がもがきながらやってきたことは、決して無駄ではなかった。
広く世の中を見渡せば、こんな自分のことを気にかけてくれる人たちがいる。
必要として、認めてくれる人もいる。
今のようにインターネットが普及する前の頃から、私はこの大切なことに気づくことが出来たんです。

そして、自分の音楽を買ってくれる人がいるということも。
それは、音楽を仕事にしていきたいと強く願う自分にとって、何よりも励みになりました。

自分にも、できることがあるということ。
自分の作る音楽を、好きになってくれる人がいるということ。

しかもそれは、全くの他人です。
わざわざお金を出して、何の義理もなく、ただ私を信じて下さった。

世の中は広い。そして、音楽の可能性はとてつもなく大きい。

そんなことを身をもって経験し、夢への扉が確実に開くことを感じることができました。

そんな心温まる、私にとって大切な出来事だったのです。

改めて、その時の皆さんにお礼を申し上げたいのです。

愚かにも私は、当時買って下さった人たちの連絡先を残しておりませんでした。
今の自分がこうして、音楽家として生きていられるのは、あの時私のCDを買って下さった人たちがいるからだと思っています。

あの一件で自信をつけることができた。
色々なご意見も、すべて自分の音楽に向けられたもの。
だからこそ、その皆さんの真剣な思いを受け止めて、前を向くことが出来たのだと思います。

改めて、この場を借りてその時の皆さんにお礼を申し上げます。

私のCDを買って下さって、本当にありがとうございました。

もし、この投稿をご覧になっている方の中に、当時のじゃマールでの私の記事を見てCDを買って下さった人がいらっしゃいましたら。
どうかご連絡下さい!

いつまでも、井村はお待ちしております。

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皆さんこんにちは!ソングメーカー代表、井村淳也です。
今日もブログをお読みくださり、ありがとうございます。

ロマンスカー

小田急線はよく使うので、ロマンスカーに乗る機会もあります。
特に、鉄道が好き!というわけではないのですが、出張の帰りなど、疲れたときは“自分へのごほうび”に乗っちゃいます。

少し前に乗ったのは、古い車両のLSEという形(赤い車体に白いライン)で、意外とあまり乗ったことが無かったんですが、シートがすごくフカフカで感動しました♪

もっと乗ってたいな、と思っているうちに目的地に着いてしまうんですよね。
たまにはロマンスカーで、温泉の旅行にも行って見たいなと思っている私でした。

さて、今回の記事は大学生活の後半戦に入ります。
私の人生にとって、きわめて重要な出来事が起こりますので、心して(?)読んで下さいませ。

平凡に続く大学生活中盤

色々と波乱の出来事が続いたのですが、大学2年春~3年夏の頃はわりと平和に、平凡に過ぎていきました。
その間、特筆すべきことといえば、やはり音楽の勉強と制作です。

音楽の理論書、問題集。
そこで得られた知識を実践で使ってみる。
実際に作ることでまた発見があり、疑問点があれば理論書へフィードバックしていく。

そんな作業の繰り返しは、私の音楽制作スキルを確実に押し上げてくれました。

事実、この頃は理論的に複雑だったり、凝った楽曲を試作するなど、色々な挑戦をしていたのでした。
もちろんいうまでも無く、複雑な楽曲=良い楽曲、とは限りません。
ですが、音楽の可能性を追求したこの時期の自分は、間違いなく今の自分にとって重要でした。

複雑な構成の音楽を作った経験があるからこそ、シンプルな楽曲の良さに辿り着いた。
そんな風に思っています。

ちなみにこの時期、色々なアルバイトを経験しました。

家庭教師や郵便局の深夜仕分けと言った学生らしいものから、テレアポ、教材の訪問販売などハードななものもありましたが、その中でよく活用したのが
「単発バイト」
でした。

学校の事務に、毎日、日替わりのアルバイト情報が届くのです。
大学に斡旋される形で色々なお仕事を経験できました。

ほとんどが一日だけ、現地集合、仕事を終えて現金でお給料を頂き、現地解散。
というとてもシンプルなものでした。

覚えているだけでも、引越し、書道の展示会、DM封入、イベントのガードマン、など等。
本当に色々な場所に行き、色々なお仕事を経験させて頂いたのです。

これも学生のメリットの一つですよね。
この頃得られた社会経験も、私にとっては貴重なものだったと感じています。

そして迎えた就職活動

ときは流れ、大学3年生の秋となりました。
ひとつの、現実に立ち向かうことになります。

そう、それは”就職活動”でした。

大学に入ったとき。
その自由でさわやかな雰囲気に圧倒されました。
ああ、全く新しい世界に飛び込んできた。
そんな感動を覚えたのです。

しかし、同時に。

さあ、これからどうやって生きていこうか。

そんな漠然とした不安、将来に対する不確かさ、そんな気分になったことも覚えています。

自由だからこそ、これからのすべての行動には責任が伴う。
どうやって生きていくべきなのか、何をなすべきなのか。
そこを真剣に考えて生きていかなくてはいけない。

そんな決意というか、選択を押し付けられているような、そんな気分になったのでした。

それはおそらく、高校1年生の時不登校になり、それまでの自分が人生を真剣に考えていなかったこと。
そんな風に流されて生きていた、人生を大切にしていなかったことが、苦い経験となり、また同じことは繰り返さないようにと自分を戒めていたような、そんな風にも思います。

折角、あれだけ勉強を頑張って入ることができた大学。
だからこそ、入学当初から公認会計士の資格取得のために勉強を始めたのだと思います。

しかし、以前の記事で書かせて頂きましたように、既にこの頃はもう資格取得はほぼ諦めていました。
その代わりに、音楽が生活の中心となっていたのです。

でも、ひとつの現実が自分の前に立ちはだかるのでした。

大学で何を学び、何を得たとしても、いつまでも学生でいるわけではありません。
日本人として生きていくために存在する義務のひとつ。勤労。
だからこそ、社会人としてどう生きていくのか、人生の長い時間である仕事を何にするのか。
それを見つけるために大学生活があるのだ、そんな風に思いました。

言ってみれば、音楽をどれだけ必死にやったところで、結局は同じ未来に辿り着く。
それが、就職活動、ということなんだ。

現実的に仕事に出来るものでなければ、結局は趣味に過ぎない。
どれだけ夢見たところで、その時の自分に何ができるわけでも無かったのですね。

そんな色々なことを考えながら、それでも就職活動へと動き出していったのでした。

明確に定まらない目標と、ひとつの答え

就職活動を始めるまで、時間は十分にあったにもかかわらず、私は十分にその備えをしていませんでした。

どんな業界、業種か。
どんな職種か。
公務員か、民間か。
社風は?望む待遇は?

長く勤めることになるのに、私は人並みにその考えをまとめていなかったように思います。
大学側にお尻を叩かれ、嫌々就職活動へと動き出していったのでした。

それでも、会計を学んだ私にとって、
「金融機関」
というものは一つの、分かりやすいターゲットではありました。

そしてまた、そこまで明確に行きたい企業が無かった私は、地元へ帰ろうかと考えたのです。

そんな中、自分が第一志望として選らんだのは、地元の大手金融機関でした。
静岡県内最大手とされ、地元では誰もが知るところだと思います。

迷いながらも、就職活動の疑問に対する一つの答えが出た私は、OB訪問など一連の手順を踏み、入校試験へと臨んだのでした。

就職活動の結果は・・・

噂には聞いていましたが、大手の就職試験はとても大変でした!
試験から入って面接は全部で4~5回やったでしょうか?

私にとって面接はとても苦手なものでしたが、それでも何とか自分なりに出せるものを出し切ったのです。

そして結果は、なんと!

見事に内定でした!

ちょうど実家に帰っているときに電話がかかってきて、家族みんな大喜びしてくれたことを覚えています。
今、思えば、どうしてそこを目標としたのか。
それはきっと、親を喜ばせたかったからなんでしょうね。
というのも、私が大学に入ったことで、親はたいへん喜んでくれました。
それまでがどうしようもない高校生だったので、余計にその喜びが大きかったようです。

それが、私にとってはとても嬉しかったのです。
だから、また、みんなを喜ばせたい。
そんな思いに駆られたのでした。

地元の大手金融機関に入行できれば、家族や親戚はきっと、誇りに思ってくれるはずだ。

そんな思いが、私を動かしていたのだと思います。

良かった、これで良かった。みんな喜んでくれている。

しかし、そんな風に安心しながらも、心はどこか満たされない思いでいたのでした。

就職活動で疲弊し、燃え尽きた心。引きこもりへ

晴れて第一志望の金融機関から内定を頂けた私。

喜ぶべきことですし、とても幸運でもあったと思います。
それでもなぜかその後は心が晴れず、しばらく元気が出なかったことを覚えています。

それは、本来本当に望んでいたわけではない就職活動を必死にこなしてきたことで、心が疲れきってしまったのではないかと思います。
燃え尽き症候群、とは少し違うような気もしますが、症状としては似ていたかもしれません。

そして、ただでさえ大学には友達が少なかったところに加え、基本的に誰ともつるむことなく、一人で就職活動を進めていた私にとっては、大学という場所がどこか遠いところのようになってしまったのでした。

既に内定は頂け、あとは卒業するのみ。“大学”という場所における、目標を見失ってしまったような気持ちだったのかもしれません。

次第に大学に行きづらくなっていきました。

高校の時のように、不登校になるわけでは有りませんでしたが、何となく無気力になり、必要最低限の通学以外、家に引きこもるような日々となっていってしまったのです。

それだけ、音楽に没頭していた

それは、就職活動まであれだけ力を注いだ、音楽の影響でもあったはずです。
就職内定ということは、当然、卒業後の社会人生活が待っていることになります。
そして同時に、自分の音楽への夢が現実的に、絶たれたということも意味していました。

それだけ、私にとって音楽というものは、自分のすべてをかけて情熱を注ぎ込んだものだったのだと、今思います。

就職活動が始まるまで、まともにその準備もせず、深く考えてもいなかったこと。
内定を頂けたあと、無気力となり引きこもってしまったこと。

それらはすべて、音楽につながっていたように思うのです。

まるで、いつまでも大人になりきれない子供みたい。

そんな風に思われるかもしれませんね。
でも、私にとってはやはり、音楽が唯一の、自分に自信を持てるものだったのだと、思います。

大学に入り、一旦は資格取得を夢見て、勉強に励んだ。
そこで挫折を経験するも、自分にとって“これだ!”と思える音楽に出会えた。
しかし、また現実に戻され、就職活動。

一度、本気で取り組んだ音楽を、別のことで封印されてしまったような、そんな感覚だったのです。

それが自分の無気力を生み、引きこもりのような生活となってしまったのでした。

本当は、もう、気がついていたのかもしれません。
「自分が本当に進むべきなのは、音楽の道なんだ」
ということ。

ですが、それをかなえるための方法がわからない。
現実に何をすべきなのか、何も見当がつかず、ただ時間が流れていくだけでした。

大学入試のときのように、決まった勉強をして、試験で結果を出せば、認めてもらえる。
そんな、分かりやすい判断基準が有るわけでもありません。
ただ漠然とした夢があって、その実現のために一体自分に何ができるのか?
それさえも分からない状態だったのです。

本当にやりたいことがあるのに、その道に進むことができない。
その苦しい思いが、その時の私に大きな反動となって返ってきてしまったのではないかと、思っています。

その結果は最悪の形となって・・・

そして、迎えた4年生の冬。
私はなんと、あろうことか、必須科目の試験を受け忘れてしまうという大失態を犯します。

足しげく学校に通うでもなく、本当にただ無気力に生きていたその頃の私。
特に気をつけておくべき試験の日程も、自分の中で曖昧になっていた。
本来あってはならないことですが、絶対に受けなくてはならない試験を受けなかったのです。
全体の科目数は足りていましたが、必須科目は他で埋め合わせができないのです。

後から気がついて、慌てて大学に掛け合いました。
再試験を受けさせてもらえないか。
しかし、結果は厳しいものでした。

そして、留年が決定したのです。

取るべき単位が取れていないのですから、当然です。
もちろん私は、必死にかけあいました。
大学にも。就職先にも。

しかし、結果はやはり、どうにもなりませんでした。。。

留年。
なんと、もう一年、大学に通わなくてはならない。
たった、一科目のためだけに。

そしてその時、改めて気がついたこと。
もう一度、就職活動をやり直さなくてはならない。

その事実を改めて突きつけられ、目の前が真っ暗になりました。

親との電話

私にとって、最も辛かったこと。
それは、留年したことを親に知らせなくてはいけなかったことです。
そして、あれだけ喜んでくれた、内定が取り消しになったことも。

電話の向こうで、親の今まで聞いたことの無い口調を聞きました。
なんと言っていたのかは、ほとんど覚えていません。

私は、自然、号泣していました。
ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返すだけでした。
親の前で(電話越しにですが)それだけ泣いたのは、大きくなってからは初めてだったと思います。

苦労して手にした内定を、自分の不注意で台無しにしてしまった。
もう一年、すべてをやり直さなくてはいけない。

そして、これは後で痛感することとなりますが、二度目の就職活動は当然、一度目とは比較にならないほど厳しいものとなります。
さらに、5年目の仕送りが止められることも決定しました。
自分の責任なのだから、自分で何とかするように。
それが親の出した結論でした。

そんな現実に押しつぶされそうになっていましたが、それ以上に、たくさんの人たちの期待を裏切ったことに対する思いが強かったことを覚えています。
自己嫌悪、情けなさ。
一体何をやっていたのか。
自分のことを許せない気持ちにもなりました。

でも、それが自分自身なのですよね。

自己責任で大失敗を演じてしまった私。
これから、苦難の留年時代に入ってまいります。

今回も長い記事となりましたが、最後までお読み下さり、ありがとうございました!

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皆さんこんにちは!ソングメーカー代表、井村淳也です。
今日もブログをお読みくださり、ありがとうございます。

おんな城主~直虎

皆さん!大河ドラマ、ご覧になっていますか?
私はもちろん見ていますよ♪

と、言うのも・・・
先日リリースさせて頂いたCD
「浜松歴史楽曲集」
に収録されている楽曲に、井伊直虎をテーマにした楽曲
「美しき虎」
が入っているからです。

私なりにこの楽曲を作るにあたり、歴史の勉強をして臨みましたが、ドラマでは細かい時代背景や人間模様など、様々な要素が絡み合っていてとても面白いです!

三話まであっという間に感じました。
この記事を書いているのは月曜日なので、次が遠くて仕方ありません・・・

日曜日が待ち遠しいですね!
個人的には、おとわ(直虎の幼少時代)のお父さん。
井伊家の殿役の方の、演技がとても好きです♪

人生初めての一人暮らし

晴れて大学入試に合格し、新しい生活が始まりました。
人生初めての一人暮らしです。

初めての一人暮らしは、東京都日野市。
私にとって
「第二のホームタウン」
となる場所です。

ここで私は、5年間を過ごすことになります。

・・・あれ?現役で入ったんだから4年じゃないの?

と思われた方!鋭いです。
なぜ5年なのか?そのことは、またおいおいお話させて頂くとして・・・

初めて住んだ東京都。
京王線の、南平という駅のすぐ近くのアパートでした。
学校との協力アパートで、家賃がとても安かったんですよね。
確か、共益費込みで35,000円くらいだったような記憶があります。

もちろんワンルームの、狭いキッチンにユニットバスという、いかにも学生アパート風情でしたが、それでも私にとっては特別な場所でした。
ここでは、思い出が本当にたくさんあります。

と同時に、不安もありましたし、ずっと静岡の田舎で育った世間知らずの私にとって、新しい体験の連続でした。
いっちょまえに、軽いホームシックにもかかりましたし・・・

衣食住のすべてを自分でやらなくてはならない。
という生活の変化がまず大きかったです。
学校までは、原付で通っていました。ほんの15分も行けば学校に着いたので通学はとても楽でしたが、毎日の生活を自分で管理しないといけない大変さは一人暮らし独特のものですよね。

朝も自分で起きなくてはいけないし。
食事も自分で何とかしないといけないし。
掃除、洗濯。
光熱費もかかってくるし、役所への届出など、自分でやらなきゃいけないことも出てきます。

まだ学生ですから本当の意味で自立していたわけではありませんが、それでも自分にとって、貴重な社会経験のスタートでした。

そのときの間取りは、大体こんな感じです。
この窓から京王線の線路が見えるのですが、その景色が好きだったんですよね。

ちなみに大学生のとき、
「京王線に揺られて」
というオリジナル曲を作ったりもしました。

機会があれば、こちらも公開させていただきますね!

大学生活と最初に打ち込んだもの

大学と言う場所は、当然ですが高校までとは全く違うところだなと感じました。

年齢的にはもう、大人と言っていい人達の集まり。
特に周りには浪人して入ってきている同級生も多くいましたから、余計にそう感じたのだと思います。

実は、私が中央大学を選んだのには理由がありました。
会計学科
があったこと。そして、私が高校生のとき、何気なく知った
公認会計士
の資格が勉強できる環境があったことです。

それはゼミではなく、もっと本格的に資格合格を目指すもので、学内に専門学校があるような組織でした。
大学に通いながら、ダブルスクールのような形で勉強が出来る。
時間的にも多くのメリットがあるものでした。

私はそこに身を置き、資格の勉強に励むことにしたのです。

当然、会計の知識などは一切ありません。
商業高校を出た人たちは、高校時代に簿記の資格を取っていたりもしているのですが、私の場合はそういうこともありませんでしたので、
まずは簿記の基礎からの勉強となりました。

4月、入学とほぼ同時に受講スタートとなり、簿記の勉強を始めました。
確か6月だったと思いますが、日商簿記検定を受検し、3級、2級を同時に受けるのです。

通常、簿記2級も簡単な資格ではないのですが、何しろ濃密なスケジュールで勉強していましたから、
「簿記2級は軽く受かっていただきましょ~」
的な空気がありました・・・!

実際、そのとおりでほとんどの人がこの6月に合格しています。私も運よく、合格できました。

もちろん、大本命は公認会計士の合格ですから!
すべてが順調にパスすれば、大学3年生の夏の試験で公認会計士の2次試験に合格できます。
実際は3次試験まであり、そこまで受からないと正式な公認会計士ではないのですが、2次試験というのは、ほとんどが最終テストのようなものでした。
最も難関であり、かつ、最も重要な試験だったのです。

夏季合宿などもあり、とにかく簿記、会計の勉強漬けの毎日。
私はもう、完全にそこに没頭していましたから、サークルにも入らなかったんですよね。

気持ちは高く、公認会計士大学在学中の合格へ!
そんな思いで、勉強の日々でした。

大学入試を乗り切ったことで、勉強に対する自信も持てていたことは確かでした。
あれだけのどん底から、現役で第一志望に入れた。
その事実は間違いなく私を変え、よし今度はこの難しい資格に合格するんだ!
そんな思いで一杯でした。

ところで・・・
この時期、私は一旦音楽から離れました。
なぜかと言えば、やはり高校1年生のときの経験が背景にあります。
当時の私にとって、音楽で生きていきたいという思いは悲願のようなものでもあり、また、その思いがあったからこそ不登校にもなってしまった。
そんな風に感じていたのかもしれません。
その後、自分で受験勉強に打ち込み、合格できたことで、“陽のあたる場所”に出てこれた、そんな思いを持っていたのでしょう。

音楽を嫌いになったわけではもちろんありませんが、
「音楽を仕事にするなんて、ばかげた夢だ」
と思い込もうとしていた節もあったのだと思います。
正直に言えば、迷いもあったはずです。
高校時代には漠然と描いていた、「音楽大学に入りたい」と言う思いもありました。
音楽への思いが強かった私は、何か将来につながる進学ができれば、と考えた時期もあります。

ですがそれは現実的ではなく、それでもこうして、第一志望の学校に入れたのだから、そこで自分にできる最高の努力をしたい。
そう考えたのでした。
それが私にとって、公認会計士の資格を取得する、ということだったのです。

ではなぜ、他の資格ではなくて公認会計士なのか?ということですが、どうせ取るなら難しいのがいい!というわりと単純な理由でした。
私が資格のことを知った時、弁護士などと並び最難関資格とされていましたので。

挫折と不安。迷いと恐れ

順調にスタートを切った資格取得のへの勉強。
しかし、その後で一つの挫折を味わうことになります。

それは、確か11月だったと思いますが、日商簿記1級の試験でした。
この時期、既に私は少し勉強についていくのが難しい状況でした。
講義にも出席しないことが出てきたり、自主勉強も疎かになっていたり。
中でも一番大きかったのは、やはり
「組織の中に溶け込めなかった」
ということではないかと思います。

私にとって、大学と言う場所は地元を離れ、全く新しい環境でした。
以前の記事でも書きましたように、辛いことの多かった地元を離れて心機一転人生をやり直すような気持ちでしたから、私にとって得るものも多くありました。
しかしそれでも、自分の中での本質的な部分はあまり変わっていなかったのです。

それはつまり、人との関わりに恐れていた。
ということです。
中学、高校と人間関係で悩み続けてきた私にとって、やはりそこがどうしても乗り越えられない壁としてありました。

大勢の人が集まる場所ですから、資格の勉強をしていても自然と人との輪ができてきます。
また講師の先生と仲良くなったり、分からないところを教えてもらったり、そうすることでまたモチベーションを維持していける。
それは仲間同士でも同じで、切磋琢磨して勉強に打ち込めるような、そんな環境を作っていけることで、辛く長い勉強生活に耐えられる部分もあると思うのです。

私には、それが無かった。
講義に出ても、ただ授業時間を受けるだけ。
終わったらすぐに帰ってしまう。そんな毎日でしたから、そこに居場所を見つけることは、やはりできていなかったのですね。

そんな状況で受けた、簿記1級の試験。
結果は、案の定というか当然というか、不合格でした。

ここでの挫折が自分の中で大きく影を落とすこととなります。
実際のところ、簿記1級というのは公認会計士になるために必須ではありません。
ですが、広狭の差は有れど受験範囲が似ており、その延長線上に公認会計士の2次試験があるような感じでしたから、ある意味
「本試験のミニ前哨戦」
のような様相を呈していたのです。

そもそも、簿記1級に不合格だったかどうかというよりも、その場所で居場所を見つけられなかったことが、何より自分にとって問題だったのだと今改めて思います。
そこに来ての不合格。
私の中で、ずっと感じていた違和感のようなものが、この結果によりはっきりとした形となって表れて来たように思います。

また音楽の道へ

そんな状況にあった大学1年の冬、私は悩んでいました。
このまま、資格の勉強を続けるべきなのか。
実際のところ、自信を大きくなくしていたことも事実です。
自信をなくし、打ちのめされたような思いでした。

当時、私が興味を持ったのは、作曲ができる機械でした。
「シーケンサー」
というものです。
当時は今のようにパソコン上で作曲ソフトを動かす、と言うスタイルではなく、手軽に操作できるもののそこそこの音質で再生できる、作曲の機械を買ったのです。
それまで、同様の機械を使ったことはありましたが、それは
「ドラムマシーン」
というもので、名前の通りドラムの音しか出せないもの。
バンドではドラムメンバーを探すのが難しく、その場合に代用として使っていたのでした。

しかし、今回手に入れたシーケンサーは、ドラムはもちろんあらゆる楽器を同時に鳴らすことができます。
その鳴らし方は、当然事前に自分で電子的な楽譜に打ち込む必要があるのですが、それでも私にとっては夢のような機械でした。

色々な音楽を再現できる!
自分で作曲したものを、演奏できる!

まだまだ初歩的な機械ではありましたが、その出会いは私にとって驚きの連続でした。
そしてその頃、その機械で作曲した楽曲で、高校時代のバンドで
「ティーンズミュージックフェスティバル」
という音楽の大会に出場しています。(結果は、残念賞でした)

・・・と言葉で説明しても、どんな機械なのかいまいち分かりづらいかもしれませんね。

楽譜、色々な楽器の音色、鍵盤と、再生&録音機能がすべて含まれている機械と言えば少しはイメージがわきますでしょうか?
ただ、作曲できる機械といっても、その作業はすべて自分で行う必要があります。
自動で何かを用意してくれるわけでもなく、例えばドラム、ピアノ、ギターといった楽器の演奏をすべて、自分で決めていく必要があるのです。
それは作曲と同時に、アレンジ=編曲も行う必要があることを意味していました。

音楽を作る際、メロディラインと簡単なピアノの和音だけ、という状態では、あまりに簡単な表現に過ぎません。
しかも何曲もオリジナル曲を増やしていきたいと思っている私にとっては、その編曲作業も大切なものなのでした。

折角、色々な楽器を使うことができるのだから、機能を十分に使いこなさなくてはもったいない!
そう考えたのです。

そこからはもう試行錯誤の連続でした。
色々と試しては見るものの、うまくいかない。
作曲だけでなく、編曲も自己流でとにかくトライしてはまたやり直す、という作業を繰り返しました。

その機械の良かったところは、試してみた結果がすぐに音となって聞くことができたという点です。
現在の私はパソコンで作曲を行っていますが、機能的には飛躍的に今の方が上ですが、その扱いやすさ、分かりやすさでは、当時のシーケンサーのほうが上だったのです。

この楽器を使ってみたらどうだろう?
この和音をつなげてみたらどうだろう?

そんな色々なアイデアを存分に試すことができました。
その一連の作業は、とても難しくまたなかなか上達しないものではありましたが、今思い返せば大変に勉強になった経験だったと感じます。

機械そのものの操作だけでなく、同時進行的に作曲、編曲の知識も実践で身につけていかなくてはいけない。
大変でしたけど、その作業に没頭することで、自然と知識と技術を身につけていくことができたのでした。

そして、気がつけば、資格の勉強は完全にフェードアウトし、音楽の勉強、音楽制作に取り組むようになっていたのです。

勉強から逃げた、ということかもしれません。
一度は掲げた目標を最後までやりとおさず、辞めてしまったのは事実ですから。

それでも、この回り道も自分にとっては、今思えば意味のあるものでした。
挫折を経験したことで、本当に自分がやりたいことを見つけることができた。
そう思っているからです。

この時期、とにかく私は音楽制作に時間を費やしました。
寝る直前まで作曲作業をして、シーケンサーを枕元に置いて寝る。
朝起きて、すぐにまた作曲を始める。
そんな毎日だったと覚えています。

それほど、自分で作った音楽をすぐに聞くことができるのは、私にとって衝撃的でありました。
色々な作曲をして、色々な編曲を試す。
自分で考え出した音が形になっていく喜び。
自分が何かを作り出していくことができるんだ、そんな思いを感じていました。
ずっと思い描いていた、音楽への夢。
音楽を仕事にするためには、いうまでもなく、音楽を作ることができなくてはなりません。
その第一歩を踏み出せたような気がして、とても嬉しく、充実した日々を送っていました。

これが、私の大学生活の前半です。
人生が音楽中心のものになりつつありました。

実は、大学生活の後半で人生最大級の挫折が待ち受けているのですが・・・
それはまた、別の記事でお話させて頂きますね。

今回も、超特大版の記事となりました。最後までお読み下さり、ありがとうございました!

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皆さんこんにちは!ソングメーカー代表、井村淳也です。
今日もお越しくださり、ありがとうございます!

20記事目

おかげさまで当ブログは、本日20記事を迎えることができました!
去年のクリスマスから毎日連続更新記録も、続けております。

いつも読んで下さる、皆様のおかげです。

これからも頑張って書いていきたいと思いますので、どうか応援よろしくお願いいたします!

さて、以前の記事では
お父ちゃんが音楽家になるまで~高校1年で不登校…退学も考え
を、超拡大ロング版でお伝えさせて頂きました。
今回はその続き。
高校1年生の3学期、かろうじて不登校から立ち直りまた通学を再開した私の、その後の高校生活をお話させて頂きます。

前回もお話させて頂いたように、私は周りの人たちの支えもあり、何とか学校にまた通い始めます。

しかしその時の行き辛さと言ったら・・・
不登校となる前でも、そもそも学校に居場所の無い状態でした。
部活にも入らず、学校のイベントに積極的に参加するわけでもない。
委員会や生徒会などの活動に励むわけでもない。
幽霊部員ならぬ、幽霊生徒のような存在だったのです。
そこへ追い討ちをかけるように不登校になってしまったので、その状態でまた学校に通い始めるのはとても辛いものでした。

それでも何とか毎日通っているうちに、周りの目もそれほど気にならなくなってきます。
最初は周りの人たちも驚いたでしょうが、毎日通ってくるとそのうち慣れてしまうんですね。

相変わらず学校に居場所はありませんが、とりあえず通うことはできるようになったのでした。

新たな学年が始まるも、自堕落な生活は変わらず

そうしているうち、すぐに学年も変わり、クラスも変わりました。
私にとっては、学年の終わり頃に不登校となったのは好都合(と、いうとおかしな言い方ですが)だったのでしょうね。

クラスのメンバーも大きく変わり、中には私の不登校のことを知らない人もいたでしょう。
そんな中、新しい人間関係を作っていくチャンスでもあったと思うのです。

それでも自分の自堕落な生活は変わりませんでした。
相変わらず勉強は全くせず、学校生活は適当に過ごすだけ。
そしてこの頃はアルバイトもしていませんでしたから、ある意味、1年生のときよりもたちが悪い状態だったとも言えます。

事実、この学年で私は3回ほど、赤点をもらっています。
科目は世界史と、生物だったでしょうか。
赤点というのは、要するに落第点ということで、10段階の通信簿の1をつけられること。
」のときだけ、記入された文字が赤字になっているから、赤点なのです。

こうなると追試を受けるなり、先生に出された課題をクリアするなりしないと進級できません。
いわゆる、ダブリ=留年という状態になってしまいます。
実際、そこまでの状況にはならず、追試を受ける等して何とか進級はできたのですが、それでも
お前は落第生候補だ
と宣告されたも同然ですから、普通に考えれば相当にショックな出来事ですよね。
それなのに私は、大して意に介することもなく、相変わらず自堕落な生活を送っていました。

勉強はもちろん、何も頑張らない毎日でした。

最終学年となり、周りの空気が受験ムードに~そして覚醒へ

そして無事、というか何とか3年生に進級した私。
2年生のときに学校で成し遂げたことといえば、文化祭にバンドで出演したことくらいでしょうか。
周りからは
「ダメダメな奴だけど、ギターだけは(無駄に)そこそこうまい」
と見られていたようです。

そんな中、仮にも進学校だった私の高校では、3年生ともなるとさすがに周りは将来のことで一杯という雰囲気になります。
そんな状況でもいまだに勉強もせず、遊びまわっていた私。
今風に言えば「KY」ですね。
当然、周りの人たちからは相手にされなくなってきます。
そんな時、私はあるうわさ話を耳にします。

あいつの取り柄は、ギターしかない。他には何にもできない奴だな。

まあ、確かにそのとおりではあったのですが・・・
でもその言葉は、私の眠っていた何かに確実に火をつけたのです!
悔しかった。同じ学年なのに、ダメな奴だと思われ、見下されている。

俺だってやればできるのに。。。悔しい!

そんな思いで一杯になりました。これが確か3年生の夏頃のこと。
実際、その頃は学年400人中、後ろには数人しかいないというテストの順位でしたから、落ちるところまで落ちていたのですが、そこから私は一念発起いたしました。

みんなを見返したい!

そんな思いが私を突き動かすのでした。
それはまるで、漫画・ドラゴンボールのベジータが自分への悔しさから超サイヤ人に覚醒したように、戦闘力が爆発的に伸びていくのを感じたのです。

そして迎えた実力テスト

そして私は、まるで人が変わったかのように猛勉強を始めます。
夏休みを利用して、まずは休み明けの実力テストをターゲットに毎日勉強に励みました。

この実力テストというのは、学期末テスト等よりは広範囲ですが、教科書等の「○○ページ~○○ページ」という形で、学校側が各教科の範囲をはっきり決めて出すものでした。
言ってみれば「実力(風)テスト」という感じでしょうか。
本番の大学入試が近づいている中、あまり意味がないと取る向きもありましたが、私にとってはまず大逆転のシナリオの序章のような思いで
“ここで一発、いい順位を取ってやろう!”という気概で勉強に取り組んだのです。

結果・・・
正確には覚えていないのですが、私立文系コースだった私は英語、国語、社会の3教科で、学年で20位以内に入ることができたのでした。
特に科目別ではなんと!国語が学年1位でした。

こちらは今でもはっきり覚えていますが、そのときの国語の先生が2年生のときの担任の先生でして、答案を配るときに
「なんと学年1位は、このクラスにいます・・・男子です!(ドヤ顔で)」
と、嬉しそうに紹介してくれました。

私も手ごたえはあったものの、まさか1位になれるとは思っていなかったので、この時は本当に嬉しかったですね!
答案を私に手渡すときの先生も、とても嬉しそうで。
一瞬でしたが
「お前もやればできるんだな!見直したよ」
と言ってくれているようでした。

そしてその実力テストの順位は廊下に張り出されましたので、相当にセンセーショナルな出来事であったのでしょう。
周りの人たちや、先生までも私に対する見方が大きく変わったのを覚えています。

今まで自堕落に流されるだけの生活を送り続けてきた私。
今回のことを経験し。何かを必死で頑張って、成し遂げたいという思いに強く駆られたのです。
そのためには、やはり高校生である今の自分にできる、一番大切なことは、勉強なんだ。
遅すぎるような気もしますが、ようやくその答えにたどり着きます。
これが、高校3年生の夏休み明けのこと。

そこからは、もう勉強に夢中でした。
やればやっただけ結果が出る、ということを身をもって経験した私は、勉強の虫になりました。

そもそも、直前まで自堕落な生活のお手本のような高校生でしたから、親にも
「俺は高校出たら働くから」
と言っていたので、入試のために予備校に通うようなこともできず、ただひたすら参考書で勉強する日々でした。

というのも、既に学校の授業は入試モードになっています。
実を言うと夏休み明けの実力テストは、はっきりと範囲が決まっていたので、その全体を
「丸暗記する」
という無茶な勉強法で臨んだのでした。記憶力には自信があったのですね。
逆に言えば、内容を理解していないまま、ただ暗記しただけで挑んだ実力テストだったのです。
そしてとりあえずの結果を出すことはできたのですが、大学入試となるともちろん範囲は今まで習ったことのすべてとなります。
私にとって、特に英語などはその頃の授業には全くついていけなかったのですね。
いわゆる「受検英語」で、複雑な構文とか、イディオムとか・・・英語というより「宇宙語」を聞いているかのようでした。
ですから、まずは完全に忘れていた1年生の頃の教科書や参考書から、復習をすることから始めていました。
なんと英語の授業の時間に、先生の目を盗んで1年生の教科書で自習していたほどです。

9月の実力テストで結果を出したものの、まだまだ状況は厳しいものでした。
この時点で既に入試本番まで半年を切っています。
一日、一日が戦いでした。
ピーク時には、3時間ほどまで睡眠時間を削って勉強していた時期もありました。

それでも、その時期になると既に、さまざまな思いが私の中でひとつの形を取り始めていました。
自己嫌悪や、情けなさ、辛かったこと、寂しかったこと。
そんなすべての負の感情が、一気にプラスの方向へとあふれ出し、私を突き動かすのでした。
少しずつ、だけど着実に自分の中で生まれてきた、自分への自信。未来への希望。
そんなプラスの方向です。

大学の一般入試では、基本的に本番のテストの点数でのみ合否が決まります。
これも、私にとっては幸運でした。
当然ですが、推薦などは頂くことは出来ませんでした。
高校入試の時のように内申点など考慮されては、どの大学にも行けなかったでしょうから・・・

とにかく実力をつけて、本番で結果を出すのみだ。
それさえできれば、合格できるんだ。

そんな思いは、私の大きな勇気となったのです。

センター試験で失敗するも建て直し、本命の私立受験へ

そうして少しずつ、でも確実に周りの人たちとの差を縮めながら、知識をつけていった私。
年明け1月の大学入試センター試験には、満を持して臨みました。
私立文系コースだった私でしたが、3科目のセンター試験経由で入れる大学も僅かながらあったのですね。

しかし、実力不足に加え緊張や気負いもあって結果は散々なもの・・・
もちろん、以前の落第生候補の面影はもうどこにもありませんが、それでも自分の目標とする点数にはとても届かない状況でした。

そもそも私立コースでしたから、本番は翌2月の各大学ごとの入試ではあったのですが、このセンターでの失敗が改めて、自分の現状を見つめなおし、勉強法の修正を余儀なくさせました。
そしてそれが結果的に、良かったのだと思います。
言ってみれば、センター試験が本番私立入試の、前哨戦のような役割を果たしてくれたのでした。

思えばこの頃から、必死に自分の中で何とか解決策を見つけ出そうとすることを身につけていたようです。
自分で目標を明確に定め、その達成のために努力する。
結果が出なければ原因を探り、対応策を講じていく。
このサイクルを、ビジネス用語で
「PDCA」
と言いますが、まさにそのまんまですね。
そんなやり方を自然と身につけていったのだと思います。
色々な参考書を元に、テストでの失敗も繰り返しながら、何とか自分なりの勉強の仕方、どうすれば結果が出せるのかということを模索していきました。

この頃になると、自然と職員室の先生にも相談に行けていました。
ほんの数ヶ月前までは、職員室など怒られるとき以外、足を踏み入れるところではなかったんですけどね・・・(笑)
先生に頂いたアドバイスも参考にしながら、さらに本番に向けて勉強に励みました。
この頃が人生で一番勉強していたと思います。
そんな自分のことが好きだったし、誇りを持っていました。

夜食によく食べた、冷凍食品のキムチチャーハンがとても美味しかったな。
受験生は、よく腹が減るんです。

そして、迎えた2月。私立は4つほど受けましたが、本命は
中央大学
でした。
私にとっては絶対的な第一志望。
学費が一番安かったというのもポイントが高かったです。

当時、私の行きたい学科を擁する大学はそれほど多くなくて、少ない選択肢から選んでいくような形だったのですが、その中でも中央大学は上位に位置していましたから、第一志望とするには十分な目標でした。

どうせ受けるなら、難関校に入りたい。
素直にそう思っていました。
もちろん、偏差値的に上を見ればキリがありませんが、私の中では絶対的な第一志望だったのです。

そして遂に本番を迎えました。
無理がたたってか、風邪をひいてしまうというハプニングもありましたが、私は精一杯自分の力を出すことができたと思います。
そして、結果は見事に合格!

本当に嬉しかったし、自分のやってきたことに対する結果が出ることの満足感は大変大きなものでした。
人生で初めて、必死で努力して掴んだ栄冠だったのです。
何をするにも中途半端で、必死さのない生き方をしていた私。
そんな私が初めて、心から望んで実現したいと願ったこと。

高校入学当初から環境に馴染めず、不登校となり、一時は本気で中退を考えていた。
その後もあれだけ劣等生の見本のような生活を送っていた私が、第一志望に現役で合格できた。
これは今でも、そしてこれからもずっと、私の中で誇りに思えることです。
何かの目標のために、自分の持てる力をすべて出し切って結果を出すことができたのですから。

もし結果が出なかったとしても、その時どれだけ自分が頑張れたか、ということ。
結果云々より、自分の全力を出し切れたかということ。
それがその後の人生を大きく左右するのだと学びました。
結果は、その先についてくるものだったのですね。

今の私は、率直に言って学歴など何の意味ももたない仕事をしています。
極端に言えば、私が高校1年生のときに中退していても、今の仕事をしていた可能性はゼロではありません。

しかし、実際はそうはならなかったと思います。
なぜなら、大学入試という自分にとってはとてつもなく大きな目標を、自分なりの努力で乗り越えたという事実が、今の私にとって大きな財産となっているからです。

あの時頑張れたんだから、きっとやれる。

そんな思いが、私の人生にとって大きな力となったのでした。

もし、このブログを読んでいる人の中に壁にぶつかっている人がいたら、心から伝えたいことがあります。
その壁にぶつかっている間、必死でもがている間、それはすべて無駄にはならない。
すぐに結果が出なかったとしても、何とかしようと努力したという、そのこと自体が、必ず自分自身の力となる。
あの時あれだけ頑張れた、精一杯やれた、という事実が既に、自分を成長させているんだということです。

どんな形であれ、その時の自分にできることを必死にやりぬくことが、きっと、未来につながるのだと思います。

卒業式~サクラは咲いて、新しい世界へ

卒業式を迎えました。
私にとって、人生で一番感動した卒業式です。

今でもはっきりと覚えているのは、会場となった体育館に入るとき、1年生時の担任の先生と目が合い、交わした一瞬のやり取り。以前、不登校になった時に自宅まで説得に来て下さったあの先生です。
私はこの瞬間のことを、今でも忘れることができません。
先生は、私のことをずっと信じてくれていました。

お前は頑張ればできるんだ、俺はずっと信じていたよ。

無言で交わした一瞬のやり取りでしたが、そんな先生の思いが伝わってくるようで、私は卒業式が始まる前から泣いてしまいました。

そして、卒業式の後。
とても穏やかな空気の中、クラスメイトは部活の後輩たちに囲まれ、楽しそうに過ごしていました。
部活に入っていなかった私は、そんな輪の中にはいません。

ですが、その時の私にはもう、それまでの自分の心をずっと満たしてきた寂しさはありませんでした。
精一杯努力できたこと、そしてその結果を出せたこと。
自分が納得できる学校生活の締めくくりができたことの満足感で一杯でした。

そんな形で私は、辛いことの多かった高校生活を終えることができたのです。

そして、この半年の間にも、私のそばには常に音楽がありました。
勉強中に聴いた音楽。
気分転換のときに聞いた音楽。
入試本番、大雪の降る東京、初めて歩く新宿で聞いた音楽。

そんな色あせない大切な記憶とともに、音楽への思いもさらに深くしていったのでした。

むしろこの頃は。

不登校の時のような、辛さを紛らわすための音楽ではなく、頑張る自分への応援歌のような気持ちで聞いていました。
大好きな曲を聴きながら、未来の素晴らしい世界へと思いをはせていました。
そんな風に音楽は、辛いときも、前向きなときも、どんな時でもその時の気持ちに合わせて寄り添ってくれるもの。

そんな音楽の奥深さ、可能性に改めて心惹かれていく思いでした。

新しい、自分と音楽との関係。その先に広がる新しい生活。
さあ、新しい世界へ。新しい自分が始まるんだ。
辛かったたくさんのこと、記憶は全部、置いていこう。
私の心は、そんな希望で満ち溢れていました。

以上、今回の記事はここまでです。
今回も長くなりましたが、最後までお読みくださりありがとうございました!

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皆さんこんにちは!ソングメーカー代表、井村淳也です。
今日もお越しくださり、ありがとうございます。

去年の11月、関東では記録的に早い降雪が話題となりました。

この記事を書いている今も、とても寒いです。
静岡県中部で生まれ育った私にとって、雪は憧れに近いものでもありました。
おおげさではなく、本当に全く雪が降らないのですから!

ですから、私にとってほとんど初めての雪体験は、大学入試で東京に来たとき。
2月、大雪が都心に降り積もった時でした。

この時は入試時期の精神状態もあり、大変に衝撃を受けたのを覚えています。
私にとって大切な思い出と共にある、雪。

その時のことは、改めて記事にさせて頂きたいと思います。

さて、前回は新着情報として、
新着情報!~浜松歴史楽曲集 CDの紹介
という記事を書かせて頂きました。

今回はまた、「音楽家になるまで」のカテゴリーに戻りまして、高校入学後の私についてお話させて頂きたいと思います。
時系列としては、
お父ちゃんが音楽家になるまで~中学時代は、いじめられました
の続きとなります。
とても長くなると思いますが、私が音楽家を志すための重要な分岐点が含まれていると考えています。
どうかお読み頂ければ嬉しいです。

中学時代、いじめにあった私でしたが、中学3年生の頃はだいぶ落ち着いてきました。
それは3年生時の担任の先生の人柄によるものが大きかったのでは、と思っています。

そんな中で迎えた、高校入試。
結果的に私は、公立の志望校に合格することができましたが、その進路として選んだ高校は、今思えば自分の中で徹底的に考えて決めたものとはいいがたいものでした。
「学力的にちょうどよさそうだから」
「家から近いから」
「兄も行った高校だから」
そんな理由で、言ってみればまた周りに流されて決めてしまったようなところが大きかったと思います。
「学力的に微妙だけど、頑張れば行けるかもしれない上位志望校を目指す!」
と言った気概もなく、ただ何となく決めてしまった進路だったのです。

全く新しい環境に馴染めず、戸惑いの連続

さて、高校と言う場所はそれまでと違い、一気に新しい出会いが増える場合が多いのではないでしょうか?

小学校、中学校は各地域ごと、一番近い公立の学校に行き、高校からはより広範囲の候補から選んで入学する。
私もまさにそういう状況で、それまでの徒歩とは違い自転車通学となりました。

本来、新たな出会いに緊張しながらも、新生活や新しい友達への期待もある、そんな時期だと思いますが、私の場合は当時、もともとの性格が人見知りで消極的だったところに、つい最近までいじめられ学校生活で辛い思いを重ねてきたこともあり、どうしても心を開くことがなかなかできずにいました。

クラスメートも、ほぼ全員が知らない人たちばかり。
そんな中にあって私は自分をうまく表現することができません。
周りの人たちは、新しい出会いに戸惑いながらも徐々に距離を縮め、親しくなっていく。
そして学校での居場所を次々と見つけていく。
そんな中私は、一人取り残されていくような思いを日々強くしていきました。

そんな理由のひとつに
「部活に入らなかった」
ことがあります。
私の通った高校は「文武両道」を掲げ、勉強もスポーツも盛んな学校でした。
ですから部活も運動部、文化部問わず活発で、ほとんどの人は何かしらの部活に身をおくというのが通常でした。

今とは時代も違うかもしれませんが、そうすることが当たり前だったのです。

そんな中、私はいわゆる帰宅部になります。
それは、何かはっきりとした理由があったからではありませんでした。
部活に入らない代わりに何かやりたいことがあるわけでもなく、ただ何となく入らなかったのです。
もう、この時点で高校生活のスタートが間違っているという感じですよね。

その代わりと言っては何ですが、私が高校に入ってすぐに始めたのは
「アルバイト」
でした。誕生日が5月でしたから、すぐに16歳になったんですね。

ではどうしてアルバイトを始めたのか?ということですが、これも
「お金が欲しかったから」
なんですね。(身もふたも無い!)
もちろん、アルバイトにも良い面はあります。早い段階から社会経験をつみ、働いてお金を稼ぐことの大変さ、大切さを知る。
それまではただ親に養ってもらうだけの存在でしたが、そこで初めてお金の本当のありがたみを知って、社会で生きていくことの意味を知る。

そんなメリットもあります。
ですが、そのときの私にはどうしてもこれを買いたい!とか、家にお金を入れて両親を楽にしたい!とか、そういう明確な目的があったわけでもなく・・・

結局のところ、その場の思いつきで行動を決めていました。特に将来を真剣に考えての行動ではなかったのです。
それも遠い将来ではなく、例えば来年とか再来年とか、その頃の自分のことをイメージしてみれば、どうするべきかは分かったはずなのですが、私の場合は違いました。

ただ流され、人生に対して真摯に取り組むことをしていなかったのだと思います。

そして始まったバイト生活

そんな形ではありますが、アルバイトの日々が始まりました。
最初に雇って頂いたのはファーストフード店。
放課後の3時間と、土日のどちらかを仕事の時間にあて、学校との両立をこなしていました。
と言っても、学校はもう「ただ行くだけ」という感じでした。
そもそも、どうしても入りたい!という強い思いを持って入学した高校ではありませんでしたから、勉強にも身が入りません。
また部活にも入らなかった私にとって、学校での居場所そのものがどんどん無くなりつつありました。
そんな状況の中、勉強にも次第に落ちこぼれていくようになり、高校生としての自分って、一体何なんだろう?自分でもそんな風に思うような毎日を過ごしていました。

半年ほどそんな生活を繰り返し、ある転機が訪れます。
人間関係のトラブルで、アルバイトを逃げるように辞めてしまったのです。

中学時代のいじめ、高校に入ってからも環境に馴染めずに孤立する。
そんな人間関係での挫折を短い間に重ねてきた私にとって、今度の経験は改めて辛いものとなりました。

アルバイト先では、やはり自分から心を開くことは相変わらずできていなかったのですが、それでも何とか
自分の居場所
を見つけられていたようにも思います。
楽しい場所とまでは言えないけど、自分の中では
「高校生としてはダメダメでも、バイトは頑張ってるよ!」
という自負のようなものは多少はあったと思いますが、それも失ってしまったのです。

辞めてしまって、さあどうしようかと考えました。

何となく決めた高校。
何となく始めたアルバイト。
私にとって、
「何となく」
という無気力な選択ばかりが続いていました。

当時の私は、今の自分から考えても何の魅力もない人間だったと思います。
まだ16歳でしたが、もう16歳ともいえます。
16年も生きてきたのだから、何をなすべきかくらいは分かるはずなんです。
答えを出すのは難しいことかもしれませんが、せめて真剣に考えて生きることはできたはず。
でも、私はそれをしていませんでした。

正確に言えば、人間関係で続いた辛い経験から、その気力も失っていたのかもしれません。

もう、自分の人生なんてどうなっても構わない。

そんな風に、心のどこかで思っていたのだと思います。
そのことの意味さえもよく分からずに。

そんな中私は、ほどなくしてまた次のバイトを始めることになります。
それは、何と!
「新聞配達」
でした。

高校生が新聞配達、というと、違和感があるかもしれませんね。
思えば当時の私は、既に人間と関わることに疲れてしまっていたのかも知れません。
新聞配達なら、ほとんど人と接することもなく、黙々と仕事をこなすことができます。
学校に通いながらの朝夕刊配達は、大変厳しいものでもありましたが、あえてその仕事を選らんだのはそんな理由があったんだと思います。

当時は原付の免許もなく、自転車に新聞をくくりつけての配達。100軒ほどを担当として任せて頂いていました。
朝は3時半頃起きて配達に行き、戻って二度寝。
そして寝坊し、学校に遅刻・・・
そして放課後は一目散に職場へ向かい、すぐに夕刊の配達へ。
辛かったのは、重い新聞をくくりつけて自転車をこぐことと、雨の日ですね。

そんな、言ってみれば、何ともおかしな学生ではありましたが、学校を思い切り疎かにしながらも、それでも何とか新たな自分の居場所を見つけられたような、そんな思いでもありました。
当時の私は、それだけ心が乾いていたのだと思います。
学校は既に、ただ通うだけという状況。誰にも心を開けず、学校ではもう完全に自分の殻に閉じこもっていました。
もちろん、好き好んでそうしていたわけではないんです・・・
ただそれしかできず、何一つ楽しいこともなく、日々を過ごしていました。
心の中は、寂しさで一杯なのに、それを打開できる気力も、アイデアもなく、出口の見えない迷路の中にいるかのようでした。

でも、それでもやっと見つけた新しい居場所。
他のアルバイトと違って、若い同年代の仲間がいるわけでもないけど、それでもまた自分にとって頑張れるものを見つけたのです。

あろうことかパチスロにはまってしまい・・・

しかし、またも悪い出来事が起きてしまいました。
新聞配達の職場で出会ったおじさんに、なんとパチスロを薦められたのです!
ありえませんよね?
今考えれば、とんでもない不良中年ですが・・・

それでも当時の私は友人も極めて少なく、何の感情もないような生き方をしていましたから、そのおじさんの誘いは刺激的で、楽しいものでした。
誘われるがまま、パチスロ店に行き、そして不幸なことに始めてすぐに大勝ちを経験してしまいます。
最初のうちに、大負けしていればすぐさま撤退したのでしょうが、当時の私は、これには見事にはまってしまいました。
そして、折角新聞配達で稼いだお金を、結果的には全部パチスロで失うことになってしまうのです。

そんな16歳の冬。パチンコ屋で流れる、クリスマスソングを一人で寂しく聞いていました。
独りぼっちの寂しさを、パチンコ屋の喧騒で紛らわしていたのかもしれません。
同級生の中には、彼女とデートしたり、友達とクリスマスパーティーを開いたりして過ごしていた人もいたでしょう。
私と比べると、何と言う生活の違いでしょうか!

でも当時の私は、そんなことを思う余裕もありませんでした。
なりたい自分もなく、将来への希望もない。ただ不安をごまかして生きるだけの毎日でした。

思えば、こんな出来事のひとつひとつを、身近な人、たとえば家族とかに、相談できれば全く違ったと思うんです。
中学時代から続く、辛かったことのひとつひとつ。
そんなことをその都度、相談できる人がいれば、きっと人生は違うものになっていたでしょう。
でも、できなかった。
すべて一人で抱え込んでしまい、何の解決もできないまま、人生は悪い方向へ確実に進んでいくようでした。

そしてついに不登校が始まる

高校1年で迎える新年が明けましたが、そんな生活は続いていました。
何とかこなす新聞配達と、稼いだお金をパチスロにつぎ込む日々。
もちろん、学校の勉強などは全くやっていませんでした。

その頃は既に、学校に行くのがとても辛くなっていました。
そんなある日、ついに私は一つの行動をとってしまいます。

朝、普段通りに行ってきますと家を出るものの、すぐに公衆電話から学校に電話して、体調不良で休みますと伝えてしまうのでした。
もちろん、仮病です。
それでも、普通の高校生活を送っていたのなら、まだ良かったのかもしれません。
ああ、一回サボっちゃったな。でも明日からちゃんと行かなきゃ。
そう反省して、また普通に学校生活に戻る人が大半でしょう。
でも私の場合は、ただのサボりというより、逃避行のようなものだったのだと思います。

学校を休んで、どこへ行く?もちろん家には戻れませんから、何とその足でパチンコ屋へ。
当然、学生服では追い出されますから、着替えまで用意して。

最初は、それはもうドキドキものです。
店が通報して警察に補導されないだろうか?
そこまで行かなくても、先生や親が来ないだろうか?
そんなことを考えながら遊んでいましたが、結局そういうことは無かったんですね。
それどころか、16歳の私が朝から来ていること自体、聞かれることさえほとんど無かったんです!

当時の私は無気力そのものでしたから、見た目も老けていたのかもしれませんが・・・

そんなことをしてしまったのは、パチスロにはまっていて、楽しかったからというものあります。
でも理由の半分以上は、他に行く場所が無かったからなんです。

学校には行きたくない。
でも、家にも帰ることができない。
だからといって「盗んだバイクで走りだす」ような勇気も行動力もなく。
一度、仮病で休んでしまった学校は、同じことを繰り返すようになりました。
最初は、週に1度。それが2回、3回となり、気がつけば最終的には、完全に学校に行かなくなってしまいました。

でも、朝からパチスロ店にいつまでもいられるほど、16歳にお金があるわけでもありませんよね。
たいてい1~2時間でその日の資金がなくなり、さてどこに行こうか・・・となってしまいます。

もちろん家には帰れません。
そんな高校1年生に、どこにも行く場所なんてありませんよね。
ただ、公園に行ったり、海に行ったり。
お金のかからない場所で、何のあてもなくただ街をさまよう、そんな時間を過ごしていました。

過ごしていた、というよりも、もう心は絶望感で一杯だったと思います。

ああ、今頃学校ではみんな楽しくお昼を食べているんだろうな。
井村はどうしてるかな、とか話しながら。
なんであいつ学校来ないのかな?
家でなにしてんのかな?
とか言って。

いや、もう俺のことなんて誰も気にしてないかな。
もう、とっくに自分の存在感なんて学校ではないんだから。

そんなことを思いながら。
心の中を満たしていた情けなさと、罪悪感。
そして、現実に居場所もなく、今その瞬間、どこに行けばいいのかも分からないような毎日。

辛かったです。とても。その時の自分の状況は、今でも鮮明に思い出せます。
一体自分はなにをしているんだろう。
この先、どうやって生きていけばいいんだろう。
家族にばれたとき、どんな顔をしてなにを話せばいいんだろう。
「そんな子に育てた覚えは無い」と、悲しむだろうか。

そんな不安ばかりの時間を、一人で抱えていたのです。
そうして状況は変わらないまま、むしろ、学校を休む頻度が日に日に増して行く中で、確実に時間は過ぎていきました。

学校には、本当は行きたかった。
行ってみんなと仲良く過ごせたら、どんなに良かったかと思います。

でも、行けませんでした。

その頃、音楽は?

そんな自分にとって、唯一支えになってくれたものは、音楽でした。

行き場のない自分でしたが、どこにいても音楽だけはそばにありました。
それはまるで、世界と完全に切り離されようとしつつある自分を、かろうじてつなぎとめてくれるものであったかのように感じています。

何の価値もないように思える自分にも、まだちゃんと音楽を聞いて感動できるだけの力があるんだ、と思えました。

相変わらず現実の世界で自分の辛い状況は続いていましたが、それでも、音楽の力に強く心惹かれていく自分も、生まれ始めていました。

そしてついにすべてが明るみとなり・・・

ですが、そんな生活が長く続くはずもありません。
ついに家族にすべてを知られてしまう日がやってきました。

あまり不自然な欠席、早退が続くので、担任の先生が家に電話をしてきたのがきっかけです。

その後、担任の先生、学年主任の先生と、クラスメイトが二人、家まで来てくれたことを覚えています。
あれほど居場所が無いと思っていた学校でしたが、こうして心配してくれる人たちがいた。
私は情けなさと、申し訳ない思いで一杯でした。

そして、家族との話し合いでは、家族全員から激しく叱られました。
騙していたわけですから、当然だと思います。

そんな状況で私は、家族にある思いを伝えました。
「高校を中退して、東京に行きたい。新聞配達の住み込みで働いて、ギタリストとしてデビューしたい」

当時、ギターには自信のあった私は、こんなことを言い出したのです。
もちろん今思えば、何の計画もなく、その場しのぎで出した言葉に違いありません。
多少ギターが弾ける程度で、特に音楽の勉強をするわけでもなく、ただ漠然と音楽のプロになれたらいいな、そんな風に思っていたのでした。

もちろん家族には問題にされず、さらに叱られる結果で終わりました。
高校だけは卒業しておくようにしなさい。
そんな風に強く言われました。

今思えば、もしそのまま高校を中退していたら。今の自分は無かったと思います。
何をするにも無気力で、流されていた自分でしたから、もしそのまま東京に来ていても、ものにならずロクな大人にはなっていないでしょう。

そういう意味では、家族のその厳しい叱咤があったおかげで、今の自分があります。
その厳しさこそが家族の愛情だったんだなと、自分も親となった今、改めて感じています。

そんな風に私は周りの人たちの支えがあって、何とか高校に再び登校していくようになりました。
それが、高校1年生の終わり頃のことです。

今回は、とても長くなりましたが、
お父ちゃんが音楽家になるまで~高校1年で不登校…退学も考え
についてお話させて頂きました。

この続きは次回以降にまた、お話させて頂きます。
今回も最後まで(とても長かったですね~、お疲れ様でした!)お読みくださり、ありがとうございました。

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